映画のメモ帳+α

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司祭

司祭(1994 イギリス)

司祭(1994)原題   PRIEST
監督   アントニア・バード
脚本   ジミー・マクガヴァーン
撮影   フレッド・テイムズ
音楽   アンディ・ロバーツ
出演   ライナス・ローチ キャシー・タイソン
      ロバート・カーライル ジェームズ・エリス
      クリスティン・トレマルコ レスリー・シャープ
      ロバート・パフ トム・ウィルキンソン

トロント国際映画祭(1994年)ピープルズ・チョイス賞、第45回(1995年)ベルリン国際映画祭国際評論家連盟賞受賞。英国アカデミー賞英国作品賞(アレキサンダー・コルダ賞)ノミネート

ポーランド人の法王庁職員、ハラムサ神父は"自分は同性愛者である"と記者会見で述べたところ、会見が世界代表司教会議の前日に行われたため、バチカンは「会議をメディアの圧力にさらそうとした」という理由で彼を解雇したことが先日、話題となった。この報道を聞いて、ある映画を思い出した人もいたかもしれない。そう、1995年に公開されたイギリス映画『司祭』である。作品は高い評価を受けたものの、"同性愛者であるカトリック司祭の苦悩"を描いた内容は世界中で物議をかもし、特にアメリカではカトリック連盟が公開中止を求めてデモ行進やTVCF(!)を流す猛反発ぶり。ローマ法王が抗議の声明文をだすまでに至り、CNNやニュースウィーク紙で特集が組まれるなどの大論争となった作品である。



 以下の記事はネタバレしています。未見の方はご注意ください。

物語
リヴァプールの労働者区域の教会に着任した若き司祭のグレッグ(ライナス・ローチ)は理想に燃えていた。だが、主任司祭マシュー(トム・ウィルキンソン)はリベラル派で家政婦マリア(キャシー・タイソン)という愛人をもっており、保守的なグレッグを戸惑わせる。グレッグは信者の家庭訪問を行うなど意欲をみせていたが労働者階級の厳しい現実を垣間見て、自信がゆらぎはじめる。グレッグはゲイバーで知り合ったグレアム(ロバート・カーライル)と関係をもってしまい、罪の意識にさいなまれるがグレアムはグレッグを愛し始めていた。ある日、グレッグは高校生のリサ(クリンティーン・トレマルコ)より、父親(ロバート・パフ)から性的虐待をされているという告白を聞く。グレッグはリサの力になりたいと考えるが、告解の内容を他者にもらしてはいけない、というカトリックの絶対原則が前に立ちふさがり、"ほのめかし"に悪戦苦闘。ようやく、リサの母(レスリー・シャープ)が娘の窮地に気づき、「知っていたのになぜ教えてくれなかったのか」とグレッグを罵倒する。ちょうどその頃、グレッグはグレアムと車の中で愛し合っていたところを警察に見つけられ、彼の同性愛嗜好が表ざたになってしまった。彼は自殺未遂を図った後、僻地の教会に転任させられる。主任司祭マシューは「事件で君は成長した。思いやりをもてるようになるはず。ここで負けてはならない」とグレッグを激励。その熱意にほだされ、グレッグはマシューと共に再び祭壇に立つ決意をする。

どうしても司祭の同性愛的要素だけが強調されがちであるが、物語をみればわかるように、"告解の秘密厳守"という、カトリックのもうひとつの規律にも焦点をあてている。"禁欲"、"告解の秘密厳守"というカトリックの2大規律が主人公に一気にふりかかるというわけだ。

このこと自体、映画製作者がセンセーショナルな話題をふりまくことを狙って頭の中でこしらえたことではない。
実際、カトリック教会の聖職者には同性愛者は少なくないという。同性愛とカトリック聖職者
また、告解聴問席での秘密を守る義務に悩む神父も多い。秘密の内容によっては、この映画のように"深刻かつ重大な秘密"も含まれているからだ。主演のライナス・ローチは演技のリサーチのため、何人かの神父に話を聞いた。"秘密厳守に関する意見は司祭によって違った。対処方法としては"ほのめかし、手を貸し、誓いを破らずに、当人を助ける"というものらしい。まさに映画で描かれているとおりである。

監督のアントニア・バードはこのようなコメントを発表している。
「多くの司祭と話をしてきて、今、改めて司祭は独身であるべきという規則は不条理だと確信しています。私は世の中にはびこる不条理、不公平な偏見を暴露し、人々に考えてほしいのです」
カトリックで育った脚本のジミー・マクガヴァーンも「司祭たちはカトリシズムの先駆者になるべく導かれているが、しかし私が出会ったのは保守的な怪物たちだった」と述べている。実際、カトリック教会は"結婚できない"という規則によって若い聖職者の不足に苦しんでいるという状況だった。(キネマ旬報記事より引用・要約)映画に痛いところをつかれたカトリック教会が逆ギレしちゃったということですね。

では、『司祭』がカトリックの厳しい規則を批判することがテーマなのか?
映画を観た人ならば、そういう印象を持つ人は意外と少ないかもしれない。

その理由は実質的主役、トム・ウィルキンソン演じるマシュー神父の下記の台詞に示されている。

「神の存在を疑ったことは?私はある。戦争や災害に対しては怒りは覚えるが神は疑わない。だが今日の教会には出世主義者や偽善者や形式主義者が権力の座に執着している。その姿に私は神の存在を疑う。デニングという最高裁判事が言った。「たとえ無実の人間が監獄で朽ちても英国の法制度が揺らぐよりいい。」彼には形式や体裁のほうが正義より大切なのだ。我々にも言える。教会、大聖堂、司教、教皇 すべて虚構の象徴だ。物事の本質より重要らしい。キリストの教えは人を愛し、哀れむこと。男 女 黒人 白人 老人 若者 同性愛者も異性愛者もすべての人々を。すべてだ。」

「規則なんて人がつくったもの。司祭に妻がいたら財産を相続でとられる。そんな理由でできた規則なんだよ」

体裁、形式、規則....そういったものにがんちがらめになり、物事の本質を見ようとしない態度に批判をあびせているのだ。この映画ではカトリックの規則が槍玉にあがったが、一般の組織においても体裁や形式にとらわれ、不条理な規則が横行していることは多々ある。カトリックでない観客は、自分が所属している組織の"不条理"を思い浮かべながら、この映画を観るだろう。

形式ばかりを気にする教会上層部。
グレッグの同性愛がばれたとき、上司はグレックに聖職を去ることを決断するようほのめかす。
だが、グレッグはそんなことはみじんも考えない。
「神が私を選んだ」
自分の性的嗜好が神への信仰心をゆるがすものだとは思っていないのだ。
体裁や形式ばかりを重んじる上司はその感覚が理解できない。

マシュー神父とともに祭壇にたったグレッグに一部の信者は罵声を浴びせる。
マシューは「彼を認めないものは去れ」と怒鳴る。
全員が去ったわけではない。一部の人は残っている。戸惑った表情のまま、無言で。

グレッグが僻地の教会から去るとき、そこの女中が"よかったわね"といわんばかりに軽く微笑みながら見送る場面が妙に印象的。

残った信者、女中...体裁や形式にとらわれず、物事の本質を見ようとしている人はそれなりにいるのだ。
形式や体裁ばかりを重んじるものばかりが声高に叫ぶ。
物事の本質を見極めようとするものは黙って耐えしのぶばかり。
だから、形式や体裁がいっそう世の中にはびこってしまう。

少し話はそれるが、本作の米国での評価は以下のとおりである。
Priest (1995) - Rotten Tomatoes

本作に60点以上の評価をした批評家は63%。
ベルリン国際映画祭国際評論家連盟賞、そして過去受賞作の大部分がアカデミー賞にからんでいるトロント国際映画祭ピープルズ・チョイス賞(観客賞)受賞作としては低い数字だ。

一方、観客の評価は84%。
通常、社会派の性格も併せ持つ重厚なドラマ映画において観客の評価が批評家のそれを上回ることはほとんどないと言ってよい。観客>批評家となるのは娯楽映画か、単純明快なヒューマニズムものと相場は決まっている。

ちなみにあのロジャー・エバートも低評価。やっぱあの人ダメだ...。ゾンビ映画の名作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を子供に見せないようにしなければいけない、とPTAオバチャンのごとく酷評したのはあまりにも有名。そのくせ、形勢があやうくなると、評価を翻している。こんな人が"アメリカでもっとも影響力のある映画評論家"だったのか.....。

アメリカの映画評論家は日本のそれとは比べ物にならないくらい、社会的地位が高い。
そんな評論家様でも形式や体裁ばかりを重んじるか、もしくはカトリックからの圧力を恐れるような輩が少なからずいるってこと。映画において批評なんて参考程度にとどめ、自分の目で"本質"を見極めるようにしましょう。

ちょっと気になったことがある。
マシュー神父は「個人の罪なんて大したことじゃない。問題は社会の罪だ」と力説する。
近親相姦をされたリサの母親も同じようなことを主張しているのだ。
グレッグはそれを聞きながら「リサは元気ですか」と"ほのめかす"。
母親はそれを適当に受け流し、主張を続ける。
自分の娘の実情を知らず、社会問題を熱弁する母親にグレッグはいらだちを隠せない。

その後、母親は事実を知り、グレッグに向かって
「あなたは知っていたのね。地獄で焼かれるがよい」
と罵倒する。
自分が娘の窮状を気にもかけていなかったという"本質的な問題"を棚上げにしたままで。

個人の罪と社会の罪、その重さの違いと関連性について映画でもう少し突っ込んでほしかった気がする。
マシュー神父も、自分に愛人がいることをごまかすためにそんなことを言っているように見えなくもなかったし。

「彼を認めないものは去れ」と言い放ったマシュー神父。一部の信者は立ち去りこそしなかったものの、皆、マシュー神父のほうに並び、誰もグレッグから聖体拝受を受けようとしない。そこにひとりの少女がグレッグの目の前に立つ。

ここでのグレッグとリサの涙の意味を一言で表すのは難しい。
2人とも、これまでのあらゆる感情の波が一気に吹きだしたのだ。
単なるお涙頂戴とは一線を画す、心揺さぶられるラスト場面である。

映画『司祭』は日本で公開された際、さほど話題にもならずひっそりと消えていった。DVD化はされているものの、今日本でこの作品を観るのはやや難しいかもしれない。約20年前の映画だが、普遍的な問題を扱っているので今見ても全然古くない。10年後、20年後見ても同じであろう。このまま消えてしまうのはあまりに惜しい。リアルタイムで観ることができなかった人の目にもとまるよう、再評価されてほしい作品だ。
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2015.10.18 Sunday | 00:26 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |

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2017.12.10 Sunday | 00:26 | - | - | - |

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