映画のメモ帳+α

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アリラン

アリラン(2011 韓国)

アリラン原題   아리랑
英題   ARIRANG
監督   キム・ギドク
脚本   キム・ギドク
撮影   キム・ギドク
出演   キム・ギドク
      

第64回カンヌ国際映画祭<ある視点部門>最優秀作品賞、 第12回東京フィルメックス観客賞受賞

前作、『悲夢』(2008)から3年。最近、キム・ギドクの名前聞かないな...。ギドクは何年もかけて新作の準備をするタイプではない。早撮りで有名で、1年に1作以上のペースで新作を発表していたのに。そのため、韓国では"失踪説"、"廃人説"が流れていた。で、結局何をしていたかというと...そんなことだろうと思っていました。『悲夢』の撮影中に起きたトラブルをきっかけにギドクは(精神的に)映画を撮れなくなり、ある山のふもとに立てた子屋でひとり、仙人、あるいは世捨て人のような生活をしていたとさ。その世捨て人生活を自分で撮った、セルフドキュメンタリー形式の映画がこの『アリアン』である。もともと映画にすることを考えていたわけではなく、あまりにも寂しいから自分をカメラにとっていくうちに映画にできると思ったという。"映画がとれなくなった映画監督"というモチーフならフェリーニの『8 1/2』やそれをパクった?ウディ・アレンの『スターダスト・メモリー』他いくつかあるが、こんなことはよほど自信がない限りできない。まして劇映画ではなく自分をそのままとるドキュメンタリー形式で!監督・脚本・主演・製作・録音・編集・音響・美術キム・ギドク。怖いですね、怖いですね、でも観たいですね。




それにしても...
面倒臭い映画である。

映画ブログとやらを6年もやっていると(更新頻度が少ないため継続年数は単なる数字。あまり自慢できませんが)、記事を書くとき、ある種のテンプレート(パターンと言い換えたほうがいいかも)にあてはめてそのまま流しこみたい衝動にかられる。もちろん、当サイトとしては、毎回考えうるテンプレートから少しでもはみ出すよう尽力はしているが...。

この映画で使いたくなるテンプレートは以下の2点。

○監督から撮影、そして出演までひとり。誰にも惑わされることなく、自分をみつめ、映画作家としての苦しみを描いた。これこそ"孤高のアーティスト"映画だ。
×こんな独りよがりを他人様の眼にさらすなんて!これはギドクの"オ○ニー映画"。自虐ナルシズムとでもいおうか。これを映画として公開し、カネをとろうなんて厚かましいにも程がある。

さあ、どっちを使おうかな?結果は...どっちも不採用。そう、キム・ギドクの映画にテンプレートは適用できないのだ。それゆえ作品の紹介記事を書くにあたってはムカつくぐらい面倒くさく、でも奇妙なくらい楽しい。好き勝手なこと書けるからね。間違ったってへっちゃら♪私の解釈にすぎません!で押しきっちゃうDocomo80 まあ、映画の解釈に正解はないのでこんなこと当たり前なんですが。その当たり前のことをさせてくれる作品が最近少なくって...。

だが、キム・ギドクの映画への鑑賞姿勢にはパターンがあり、大きくわけて以下の2パターンだ。

・ひたすら感情移入し、その邪悪な世界にのめりこむ(社会復帰が極めて難しくなります。お勧めはいたしません)
・俯瞰的に眺める。

筆者はどちらかといえば後者。前者に移行しそうになっても無意識にブレーキをかけている。ただ、後者にも問題はある。映画は大真面目にやっているのに笑いたくなる衝動にかられることが多々あるからだ。狂気と笑いは髪一重?

『アリアン』にもこんな場面がある。

春夏秋冬 そして春』の“冬"。ギドク本人が上半身裸で雪の中、石を引きづって歩く"苦行場面".
この場面を見ながら、今の自分がこの"冬"の時期だと言わんばかりに大泣きするギドク。
今、人生の峠を越えつつある...。ちなみにこの"冬"の場面で流れていた曲が「アリラン」だ。

あまり大声で言いたくないのですが...
『春夏秋冬 そして春』の冬の場面観たとき、実は笑いだしそうになったのだ。
あまりに唐突で、かつ"苦行ナルシズム"って感じで...。
もちろん、『アリアン』でそれを観ながら泣く場面も同様。
でも笑う寸前で何かがひっかかって立ち止まる。その原因はよくわからない。別にわからなくてもいい。


ちなみにこの映画ではキム・ギドクが4つの役で登場する。

・髪をふりほどき仙人もどきのギドク。この映画の主演である。
・髪をしばって、"仙人"ギドクをといつめる男
・その映像を観ているギドク
・そしてギドクの影

ギドクの映画は衝動だけが突っ走っているように見える半面、よく観ると自作を客観的に観ている要素が多々存在する。その中であまり語られないのが、3番目の「その映像を観ているギドク」娯楽要素の挿入を考えている"映画監督としての視線"とでもいいかえたほうがよいだろうか?

ギドク映画には(一見そうは見えないが)実はエンタメ的な要素がかなりある。登場人物の設定は極端だし、"衝撃のラスト"みたいなのが大好き。アート映画っぽく静かに余韻を残すというパターンがあまりない。毒を強調しすぎているため、その中にひそむエンタメ要素が見えにくくなっているだけだ。ギドクの中の"エンタメ精神"はこの映画を観ても明白。面白くなるはずがない題材が面白くなってしまっている。ラスト、銃を撃ちにいく場面、ドキュメンタリーだったらあんなことしません(笑)。

映画の中で監督デビューさせた2人の弟子の話が出てくる。
ひとりは『映画は映画だ』のチャン・フン、もうひとりは『beautiful』のチョン・ジェホンのことだ。いずれもギドクが原案を提供し、弟子たちがそれを脚色したうえで監督・映画化した。この2作はキム・ギドクの世界をふまえつつも、ギドクよりはるかに娯楽色の強い形でまとめていた。この2作を観て思った。キム・ギドクの世界は本来、エンタメの枠内に収めることが可能だ。彼自身、映画をヒットさせるための"テンプレート"をちゃんと持っている。にもかかわらず、ギドクの中にある何かがそれを壊しているのだ。

『映画は映画だ』は興行的に成功し、チャン・フンはメジャー映画会社のプロデューサーに引き抜かれる形でギドクのもとを去って行った。チャン・フンは「映画〜」の公開当時「ギドクは成功を喜んでくれている」「彼は映画には口出しせず、スタジオにやってきても遠くから見ているだけだった」「(ギドク色が強いと言う指摘に)彼の下で学んだんだから当然のこと」と語っており、師弟関係は良好を保っているように思えたのだが...。

映画ではこの辺の事情はあまり詳しく語られていないが、もしかしたらギドクのスタッフもチャン・フンの後を追ってしまったのではないか?と思う。だから映画が撮れなくなったのである。もちろん、作品で語られているように『悲夢』の撮影中、主演のイ・ナヨンが首をつる場面で、手違いで本当に死にかけたことに衝撃を受け、自己嫌悪に陥ったことも本当だろう。(ハリウッドの大監督の中には、撮影中の事故でスタッフが死んだにもかかわらず、哀悼の意ひとつ表明しなかった人もいますがね)だが、結果的に命をとりとめたにもかかわらず、これで"映画が撮れなくなった"とするのは過剰反応というか、少し無理がある。チャン・フンが商業主義の世界に飛び込んでしまったことへのショックのほうが大きかったのだろう。だからといって、"韓国内において"商業的に成功したチャン・フンを"世界のキム・ギドク"が「資本主義の誘惑に負けた」となじる姿はややみっともないが。

ギドクはその気になればいくらでもメジャー映画を撮れる資質をもっている。でも、彼の中の何かがそれを拒んでいる。その何かとは、もちろんキム・ギドクの中にある"芸術魂"である。(ありゃ、テンプレート1に近づきそうだ)

冒頭、新作の企画を語るギドク。かなりクレイジーだが面白そうな話だ。米国人が主人公ということで、ウォレム・デフォーに話を持ち込んだことがあるという。だが、"今の映画製作状況では厳しい"ということだったらしい。

ここでいう"今の状況"とは何だろうか?
映画オリジナルの企画が通りにくいということだろう。リメイク、続編、漫画やベストセラー小説、TVドラマの映画化...商業的なリスクを避けたい製作サイドは、映画のためにゼロからつくりあげることに憶病になり"基盤"があるものを望む。その結果、映画という"芸術"は衰退を続ける。

今、映画のためのオリジナル脚本で映画を撮り続けている人がどれだけいるか?(新人のぞく)

ペドロ・アルモドバル、ウディ・アレン、日本では西川美和、(全作ではないが)北野武...ヨーロッパを見渡せばもっといると思うが、アメリカや日本ではオリジナルで勝負し続ける監督を見つけるのはかなり困難だ。オリジナル脚本で映画を作るのは才能あふれる、ごく一部の人の特権になってしまっている。もちろん、キム・ギドクもその数少ないひとりだ。そんな状況をギドクがさらりと嘆く。

この映画の真の製作目的は商業主義ばかりがはびこる、今の映画製作環境への反発を身をもって示すことではないか。作家の筒井康隆が言葉狩りに抵抗し、一時期"断筆宣言"を行ったが、その心情に近いものがあると思う。

「今の映画はフィルム・スタイリストの過剰なデザインにすぎない」
「人間はサドとマゾと自虐しかない」
「人に何人か会うだけで映画一本分の(邪悪な)ニュアンスを感じ取る」
「俺の話は真実かもしれないし、演技かもしれない。それが映画だ」

面白い言葉がどんどん出てくる。こんなにも自虐ナルシズムな映画なのにギドクの近作『絶対の愛』、『ブレス』、『悲夢』...そして最近見続けているアカデミー賞がらみの諸作品よりずっと面白かったのはなぜだろう?この映画がキム・ギドクそのものだからとしか言いようがない。そのキム・ギドクの映画は語るのが面倒臭い。でもコレは褒め言葉。こういう"面倒臭い"映画が僕は大好きなのだ。
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2012.04.15 Sunday | 03:50 | キム・ギドク | comments(2) | - |

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2017.07.23 Sunday | 03:50 | - | - | - |

コメント

moviepadさん、ご無沙汰しています。おはようございます。
こんな完璧な評、読んでいて嬉しくて感激しました。キム・ギドクのレビューでこんなに素晴らしいものは見たこと無いかも。
単に映画の分析をするのみならず、分析をするまでの過程を丁寧に書いたり、見ている者の感情とそこから広がっていく自分の記憶について
皆、十人十色に好き勝手語るところが私はキム・ギドク映画を見るのに相応しいと思っていたりします。
いろんな思いが去来したのですが、こんなに明晰な文にすることは私には無理だったわー。素晴らしいレビューでした。
2012/08/20 10:25 AM by とらねこ
とらねこさん、ご無沙汰しております。

う〜ん、とっても褒めすぎ(照)

この映画、最初スルーしようかと思ったんですが
観てよかった。

記事には書かなかったんですが
「悪役の演技が一番簡単。自分の中の邪悪な部分をそのまま出せばいいだけ」

自戒も入っているようで興味深かったですね。

ちなみにTB受付不可になっているのは
この記事めがけて毎日スパムTBがくる状態が続いていたからです。悪しからず。
2012/08/23 9:58 PM by moviepad

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