映画のメモ帳+α

音楽映画、アカデミー賞関連の記事に力を入れています。
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東京オリンピック

東京オリンピック(1965 日本)

東京オリンピックポスター英語題   Tokyo Olympiad     
総監督   市川崑   
脚本     市川崑 和田夏十
        白坂依志夫 谷川俊太郎      
撮影     林田重男 宮川一夫
        中村謹司 田中正                  
音楽     黛敏郎
ナレーター 三國一朗

第18回カンヌ国際映画祭国際批評家賞、青少年向最優秀映画賞受賞作品


オリンピック映画といえば1936年ベルリン・オリンピックを描いた『オリンピア』(第1部『民族の祭典』第2部『美の祭典』、レニ・リーフェンシュタール監督)が最も有名です。でも日本人に限っていえば市川崑監督の『東京オリンピック』でしょう。当たり前ですね。公開直前、オリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性にかける」とコメントしたことから「芸術か?記録か?」という大論争を巻き起こしたことでもよく知られている作品です。

 本当はクロサワが監督する予定だった

『東京オリンピック』は当初黒澤明が監督する予定でした。黒澤はこの企画に大乗り気で前回のローマオリンピックを視察し、400ページ近い報告書を組織委員会に提出していたそうです。黒澤は山本嘉次郎監督『馬』(1941)の助監督をつとめているとき、高峰秀子とともに『民族の祭典』を見にいった。帰り道、黒澤は高峰いわく「私の存在など気にもとめてくれず」足元を見ながら黙々と歩いていたそうです。何としても『民族の祭典』を超える作品を作りたい、と張り切っていたのでしょう。にもかかわらず黒澤は十分な予算が確保できなかったことが原因でこの企画から降板してしまいます。東宝及び黒澤側の制作費見積は5億9000万円(当時)。一方組織委員会の予算額は2億5000万円で、両者ともまったく歩み寄ろうとしなかった。またニュース映画7社との軋轢も原因のひとつらしいです。黒澤降板後、今井正今村昌平大島渚などが候補にあがりましたが、本番約5ヶ月前に市川崑監督に決定。市川監督はプロ野球が好きという程度で、他のスポーツにはほとんど関心がなく、"100メートル・マラソン"と口にしたという伝説まであるほどです。(本人は否定)。でも監督がスポーツ好きではなかったことがいい意味での距離感につながり、この映画を傑作たらしめたのかもしれません。余談ですが、かのレニ・リーフェンシュタールもこの企画に色気をしめしていたとか!沢木耕太郎氏の『オリンピア ナチスの森で』でよると、レニはローマ大会のときに田島直人氏(ベルリン・オリンピック三段跳金メダリスト)に会い、自分に東京オリンピックの映画を撮らせてくれるよう口ききをお願いしたという。田島氏が「すでに黒澤明に決まっているようだ」と伝えると、レニは「クロサワなら仕方がない」とがっかりしていたそうです。レニ自身はこの話を否定していますが...。市川作品は素晴らしい出来ですが、黒澤やレニが撮った”東京オリンピック”も見てみたかった気がします。

 オリンピックとは人類の持っている夢のあらわれ

さて、前置きが長くなりました。ようやく映画の本題に入ります。
最初、いきなり「オリンピックとは人類の持っている夢のあらわれである
という字幕のあとぎらぎらとした太陽がばーんと映し出されます。その後、いきなり鉄球が建物を破壊する場面に移り、その後三國一郎氏のナレーションが入ります。

近代オリンピックは第1回1896年アテネ・ギリシャで開催された。第2回1900年パリ・フランス、第3回1904年セントルイス・アメリカ...というナレーションが延々と続きます。

ナレーションのポイントは下記の部分。

第6回 1916年ベルリン。しかし第1次世界大戦のため中止された。
第12回1940年。第2次世界大戦のため中止。
第13回 1944年。戦争終わらずまた中止。
第14回 1948年。再びロンドン・イギリス。日本参加許されず。

 ナレーションでは省かれていますが、東京で開催予定でした。
東京オリンピック (1940年)  Wikipedia


以下の考え方による演出でしょう。市川監督のコメントです。

「ずーっと年表を見ていくと、第1次世界大戦、第2次世界大戦と、大きな戦争があった年にはオリンピックが行われていない。破壊が収まって平和になってからも、次の開催まで何年もかかっている。夏十さん(脚本の和田夏十氏)は、これがオリンピックの本質だろう、そして、映画のテーマはこれじゃないかと。つまり、4年に1度、地球のどこか一ヶ所に全部の民族が集まって、楽しく運動会をやろうじゃないか、4年に1度は集まれるように地球をやっていこうじゃないか、という夢の現われなんだということです。どっかで小ぜりあいがあったとしても、世界に大きな戦争がないことの1つの証として、あるいは希望として、オリンピックは行われているんだと。それが、太陽の燦燦たる恵みのもとで行われているんだから、シンボルマークは太陽にしようと」

うー、あれを日の丸だと思ったワタクシはかなり偏っているのでせふか(泣)

聖火リレー、開会式

1964年大会はアジアではじめて開催されたオリンピックです。
イスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、ホンコン、はじめて聖火が通った街が次々を映し出される。そして日本は広島・原爆ドームからのスタート。観衆の熱気がよく伝わってくる実に感動的な場面です。もっと長く見たかった。
聖歌ランナーは日本の古い町並みを通り抜けていきます。富士山をバックに聖火ランナーが通り抜ける場面が続くのですが、この富士山の美しいこと!画像加工をたっぷり施した上で合成したのかと思いました(笑)。実際に富士山を聖火ランナーが通過したときには雲がかかっていて富士山が全然撮影できなかったため、後日取り直しをした、いわゆる”後撮り”だそうです。

開会式はやっぱり華やかでいいですね〜。実はこの開会式の前日の天候は嵐。市川監督は事務総長に電話して明日も嵐だったら開会式はどうなるんですか?と尋ねたそうです。その場合は開会式は中止で順延はないというご返事。監督がどの程度の天気ならやるんですか?と聞いたら「天皇陛下が傘をさして、スタンドの玉席に立っていられる程度の雨ならやる」という回答だったとか。この開会式は前日が嵐だったとは思えないほどの快晴!何はともあれ開会式がちゃんと行われてよかったですね。最後、鳩が飛ぶ場面なんですが、あれだけの数の鳩がいっせいに飛ぶと1羽や2羽、フンを落とす輩がいたのでは?と考えたのは自分だけでしょうか?

自転車、女子バレー、競歩

競技部門で面白いところはなぜか最後のほうに集中しています。
自転車競技の映像はポップな感じでよいですね。
日の丸をふって応援している子供が可愛い!
競技選手たちのスピード感、都会的なjazz、田舎の風景と人々。
一見ミスマッチにも思えるコンビネーションが妙に心地よい。まさに映画的な演出で、個人的には一番好きな映像ですね。

続いて"東洋の魔女"の登場です。女子バレーボールは金メダルを期待されていた競技だったこともあり、決勝戦ではカメラを30台設置して撮影にのぞんだそうです。ただ映像は今ひとつ面白くない。TV中継のカメラワークを見慣れすぎているせいでしょか?ボールがどこにあるのかわからないというもどかしさがあります。でも最後の最後に見せ場がありました。優勝が決まった瞬間、選手は抱き合って喜んでいます。ところが誰も大松監督のもとに駆け寄らないのであります。自分たちだけで喜んでいる。大松監督はひとりぽつんと佇み、やがて腰掛けてしまう。安堵感、疲労感、そして孤独が入り混じった、非常に印象的な場面でした。この場面を身につまされる思いで見た管理職の方も多いのではないでしょうか?撮影に立ち会っていた市川監督は、その姿をいち早く見つけカメラ助手に「廻せ!廻せ!」と怒鳴りつけた。「監督の気持ちは、やっぱり監督が一番ようわかるんやね(笑)」だそうです。ちなみにこの後、日本で空前のバレーボール・ブームが起こり、「サインはV」や「アタックNo.1」などの作品が生まれたことは皆様十分にご存知でしょう。

哀愁をたっぷり感じたあとはユーモラスな50km競歩に移ります。カメラが選手の後姿をアップにした場面があります。男の尻振り見て何がうれしい(爆)。疲れてきた選手の手の動きは阿波踊りみたいでした。そんなケシカランことを考える輩がいるのを想定していたのでしょう。最後、絶妙のタイミングでナレーションが入ります。

競歩の定義 片足が地表に着いたら他の片足のつま先が離れてもよいが、両足とも地表から離れる瞬間があってはならない。これで50k競歩とはただことではない。おまけに雨が降る。やっているほうもいらいらしてくるのではないか?

大変失礼いたしました。優勝したイタリアのA・パミッチ選手、テープを自分の手で切っていましたね。

オリンピックの花形競技、マラソン!

最後はやっぱりオリンピックの華、マラソンです。
何といっても前回のローマ大会に続いて2回連続金メダルを獲得したエチオピアのアベベ・ビキラ(Abebe Bikila)選手に尽きますね!走る姿は本当に綺麗です。ほとんど表情を変えない。足元もほとんどふらつかない。まさに求道者って感じでした。ゴールした後でもまだ余力がたっぷりありそうに見えました。柔軟体操してるし。走るアベベの姿を横から正面から実にリアルに映し出します。供走車が検査員に怒られながら横に行ったり前にいったりして撮ったそうです。選手の前に行くことは禁止だったらしいのですが、堂々と無視して正面から撮影。おかげさまでいいもの見せてもらいました(笑)。

日本の円谷幸吉選手の姿も映し出されます。かなり差があったとはいえ2位につけていたのに競技場に入ってからイギリスのベイジル・ヒートリー選手に抜かれてしまいました。「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを守ったゆえ、いわゆる”駆け引き”が出来なかったことが原因と考えられているようです。最終的に円谷選手は胴メダルを獲得。日本陸上唯一のメダル獲得となりました。表彰台にのぼって日の丸を見上げる円谷選手は本当にいい表情をしています。アベベ、円谷両選手のその後に思いを馳せてしまうと運命の残酷さをも感じますが...。



ちょっと話はそれますが、マラソン競技では最後の選手が戻ってくるまで律儀に待つということはないようです。ある程度時間が限られていて、それまでに競技場に到着できなかった選手は中に入れてもらえないとか。結構冷たいですね。競技場入り口で「もう時間が過ぎたから宿舎に帰りなさい」と言い渡されるランナーの映像を狙ってカメラをかまえていたそうですが、本番では全員所定の時間内に戻ってきたため、撮影はできませんでした。

 ハプニングだった閉会式

さて閉会式です。まるで小学生のようにばらばらになって競技場に入り乱れてきます。観客に手を振る人、万歳する人たち、肩車して登場する人…。選手それぞれがオリンピックの終わりの余韻を楽しんでいる。人間味あふれる感動的な場面ですが、これはハプニングだったのです!市川監督はこの時の様子を「本来は、入場した選手が整列して、主催者のそれぞれの演説があって、暗くなって、篝火を焚いて、<蛍の光>を女学生が合唱して。というふうに、ちゃんとセレモニーの順序が決まっていた。それが突然ああなったものだから、びっくりしちゃってね。観客もみんな驚いたり、喜んだりで、大騒ぎになった。僕はこの突発的な事態をカメラマンたちが撮っているかどうか心配して、スタジオ中を駆け回った。翌日、ラッシュを観たら、みんなちゃんと撮ってくれてるんで、さすがにプロだなあと感心したものです。」と語っています。何でこんなハプニングが起こったかと言うと、どうも待機している選手にお酒をふるまっていたらしいのです。そのため閉会式が始まるころにはみなすっかり出来上がっていた...。東京大会以降、オリンピックの閉会式はこういうスタイルが定着したようです。

芸術か、記録か?

やっぱりこの話題に触れないわけにはいかないんでしょうね。
実はワタクシめ、この頃まだ生まれていなかったため、この論争がどれほどの騒ぎだったかよくわからないのですが...。河野一郎オリンピック担当相が市川監督に直接クレームをつけたというわけではなく、試写を観た河野氏が「芸術かもしれないが記録ではない」と隣に座っていた東京都知事に語った。それを新聞記者が聞いていて記事にしたことをきっかけに周りが過剰反応し話が大きくなったというのが真相のようです。新聞報道はこんな内容です。

「記録性をまったく無視したひどい映画。(中略)こんなオリンピックが東京で行われていたと後世に伝えられては恥だ」 − 「朝日新聞」1965年3月9日朝刊<記者席>

この映画のプロデューサー、田口助太郎氏は以前河野氏の下で働いていたためこの発言にびびりまくり監督とプロデューサーが対立するはめになってしまった。また既に決定していた文部省推薦が取り下げられたりと大騒ぎになった。ほとんど”日本国対市川崑"みたいな雰囲気だったらしいです。これは本人同士が会って話し合わないと解決しない、と高峰秀子の仲介で2人は会談し握手してチャンチャン!(笑)

河野氏は乗馬が好きだから、もっと馬のシーンがほしいとかマラソンコースは一番いい路面を自分が選んだのになぜ上り坂ばかり強調するのか?とかそういう不満があったらしいですね。当事者はきちんと記録してほしいと思うのか、スポーツ関係者からも不評だったようです。ただし主役のひとり円谷幸吉選手は絶賛していたとか。「感激した。(中略)記録性が足りないというが、日本の人は大多数がテレビを見ていることだし、あれでよい」

記録性が足りないということで作り直しの話まで出て、実際に同じ素材を再編集した『オリンピック東京大会・世紀の感動』(1966年5月15日公開)という映画が製作されているのですが、ほとんど観た人はいないようです。それにくらべて市川作品は観客動員1,800万人空前の大ヒット!そもそも記録性にこだわるのならなぜ劇映画の監督を起用する必要があったのでしょうか?芸術性最優先で製作された『民族の祭典』『美の祭典』に比べたらこの映画ははるかに記録性があると思うのですが。

「僕がこの映画を作った姿勢のいちばん底にあるのは、スポーツ・ファンだけのための映画ではないということです」
「オリンピックを人間の営みの1つとして描いたことで、記録映画じゃないってことになったんでしょうけど、あれは、記録映画以外の何ものでもないですよ。」
「『東京オリンピック』は映画なんです。スポーツ解説じゃないんだから、あくまで映画として評価してほしいと思ったね」

市川監督はこのように語っています。ちなみに1972年ミュンヘンオリンピックのオムニバス形式の記録映画『時よとまれ 君は美しい −最も速く −』という作品の中で市川監督は男子100メートル決勝のパートを監督しています。この映画の実績が評価されたのでしょう。

僕は市川監督にひけをとらないほどスポーツに関心がない。オリンピック開催中、徹夜で実況中継を見ている人も多い中、ニュースの見出しで結果を知るだけでした。そんな奴が観てもこの映画は十分面白かった!やはり映画として魅力があったからです。転倒して足をかかげていた自転車競技選手が再び走り出す。マラソンの途中で座り込んでしまった選手。記録の隙間からこぼれ落ちるそんな映像の数々にすっかり魅せられてしまいました。高度経済成長期における日本の雰囲気も見事に描いていましたね。よくスポーツの世界で「記録か、記憶か」という論争があります。記録はいやでも残る。スポーツは人間の営みだから、同じ人間の心の記憶に刻み込むパフォーマンスを見せてくれたほうが素敵だと思います。

言うまでもなく今年(2008年)は北京オリンピック開催の年。事前にこの映画を観ていればちょっと違った角度からオリンピックを楽しむことができるかもしれません。2016年夏季オリンピックの候補都市に東京が選ばれています。再び東京オリンピックが開かれることがあるのでしょうか?一生に一度くらい日本で開かれるオリンピックを見てみたいものです。

映画『東京オリンピック』は製作されて40年以上たつ今でもその輝きは失われていません。市川崑監督はオリンピック・イヤーである今年の2月13日、92歳でお亡くなりになりましたが、この映画は人々の記憶に残る名作として末永く語り継がれていくことでしょう。
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 記事の執筆にあたって森 遊机氏による市川崑監督へのインタビュー集『市川崑の映画たち 』を大いに参照させていただきました。

東京オリンピック@映画生活


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2020.09.28 Monday | 01:35 | - | - | - |

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市川崑
「東京オリンピック」 「細雪」 「おはん」 
(Akira's VOICE 2008/08/06 12:57 PM)

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