映画のメモ帳+α

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レニ

レニ(1993 ドイツ・ベルギー)

「レニ」映画チラシ原題   DIE MACHT DER BILDER: LENI RIEFENSTAHL
英題   THE WONDERFUL HORRIBLE LIFE OF LENI RIEFENSTAHL   
監督   レイ・ミュラー   
脚本   レイ・ミュラー      
撮影   ワルダー・A・フランケ ミシェル・ボードゥル                  ユルゲン・マルティン     
音楽   ウルリッヒ・バースゼンゲ ウォルフガング・ノイマン         
 (ドキュメンタリー映画)

映画には世の中を変えるほどの影響力があるのだろうか?
この問いかけに対しては大部分の映画人は否定的である。それは今だから、なのかもしれない。もしテレビもラジオもなかった1930年代のドイツだったら?『レニ』はナチス党大会記録映画『意志の勝利』を監督したことで”ナチの協力者”というレッテルが生涯まとわりついた女性監督レニ・リーフェンシュタールの生き方を描いたドキュメンタリー映画である。海に潜ったり、ヌバ族の写真をとるレニ。ヒトラーやナチス軍隊。映画冒頭、この2つの映像が交互に映し出される。そしてレイ・ミュラー監督のナレーションで映画は始まる。
「これはドイツで今なおタブー視されている人物 レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリーである。レニの実像をとらえたこの映像は彼女への偏見をぬぐい去れるだろうか。レニの取材に際して私はできるだけ先入観を捨てようと努めた。」
レイ・ミュラーが引き受けるまで18人もの監督がこの企画を断っている。

 監督を監督するのはタイヘン!

「私は君を偉大な女優にしたいと思っていたが、君は偉大な監督になってしまった」
マレーネ・ディートリッヒは私の創造物である」と豪語したことで有名なジョセフ・フォン・スタンバーグ監督はレニにこう語ったという。
レニ・リーフェンシュタールの名を高めたのは"ナチの協力者"という側面だけではない。『意志の勝利』とその直後に発表された『オリンピア』が記録映画の枠を超えた芸術美を兼ね備えていたからである。オーソン・ウェルズ、ヒッチコックと並んで同時代最高の映画作家と評されるほど芸術的に高い評価を得ている。18人もの監督がレニのドキュメンタリー企画を断ったのは、タブーと関わりたくないというのが一番の理由だろう。だが確実に注目を浴びることができる題材でもある。それでも皆が断ったのは"大監督を監督する"自信がなかったからではないか?とひそかに思ったりもする。

案の定、レイ・ミュラー監督がレニのディーバぶり(爆)に悩まされる映像が作品中たびたび登場する。映画の内容ではなく、主に撮影方法についてもめたようだ。
「歩きながらなんて話せない。こんなこと聞いてないわ。」とダダをこねるのはまだ可愛いほう。
「山全体が私の背景画になるでしょう?山を語るならこの構図でなければ駄目よ」
「ロッククライミングについて話すなら絶壁に顔を向けないと」
「でも遠すぎます」
「別々に撮ればいいわ。絶壁だけ望遠レンズで撮るのよ。全景だと山が小さくなるでしょ。」
「でも全景が要るんです」
「連続撮影するしかないわ。全体を撮ろうとするから山が小さくなるの。一つの画面には収まらないわ。」かのコッポラが編集について教えを請うために訪問したといわれる大監督・レニ・リーフェンシュタール様に演出のクレームをつけられてはレイ・ミュラーもやり辛かっただろう。

レニは『聖山』(1926)で女優として映画界入りした。『死の銀嶺』(1929)の撮影中、G・W・パブスト監督からこのように言われたという。
「君は女優だ。カメラを通してみるな」
パブストが”右を向いて”と言うと彼女はいつも左を向いていたからだ。このときレニは、自分に監督の資質があることがわかったという。映画『レニ』を通してみると、レニが良かれ悪かれ、根っからの映像作家であることがよくわかる。



 アプローチは自分から!

レニはダンサーとしてキャリアをスタートした。ようやく注目を浴びはじめていた矢先に膝を負傷する。ダンサーになる夢をあきらめざるをえず悲嘆にくれていたころ、『運命の山(邦題 アルプス征服)』(1924)という映画に出会う。当作は登山を題材とした初の映画として話題を呼んでいた。映画に感銘を受けたレニはアルノルト・ファンク監督に会いにいき、次回作に主演させてほしいと自分を売り込んだ。ファンクはレニを気に入り、『聖山』(1926)に出演が決まってしまう。レニはそれまで演技経験がまったくなかった。何とも大胆不敵なオンナである。レニは以降女優としてファンク監督作品に出演し続けることになる。ファンク作品の英雄像がファシズムへの布石と見る評論家も多いらしい...。

さて自分からアプローチしてチャンスをつかんだレニだが、次のアプローチでさらに大きなチャンスを掴むことになる。ただし、結果として"不幸へのパスポート"を手にしてしまうことになるのだが...。

映画記者イェーガーに誘われ、ナチスの集会に参加する。レニはヒトラーの演説を目の当たりにした。そしてヒトラーに以下のような手紙を書いてしまうのである。

親愛なるヒトラー様。
先頃生まれて初めて政治集会というものに出席いたしました。ヒトラー様が競技場で演説をなさいました。貴方様と聴衆の熱狂に深い感銘を受けましたことを、告白しなければなりません。貴方様と個人的に知り合いになりたいというのが私の願いでございます。(以下省略) 
※レニ・リーフェンシュタール 著「回想」より引用。

恐れを知らないアプローチをしたレニであるが、またしても夢はかなってしまう。
ヒトラーは『聖山』を観ており、彼女が踊る場面がお気に入りだったらしい。

レニの"自分からのアプローチ"。1度めは映画界に入るチャンスをつかんだ。2度目は事実上の映画界追放の布石をつくってしまったことになる。

 ゲッペルズとの対立は本当?

レニは1931年に初監督作品『青の光』を発表する。
晩年、沢木耕太郎氏のインタビューに応じたレニは次のようなことを言っている。

「あの2作(『意志の勝利』と『オリンピア』)を撮らなくたって、私は『青の光』で世界的成功を収めていたんですよ。1932年、まだヒトラーが登場する前に。たくさん依頼が舞い込んでいたから、きっと現代のスピルバーグのような仕事をしていたでしょう。それなのに、あの2つの映画のおかげでそれができなくなってしまったんです。」※ 沢木耕太郎著『オリンピア ナチスの森で』より引用

実は、『青の光』と『意志の勝利』のあいだに、もう一本レニ・リーフェンシュタール監督作品がある。
信念の勝利』という1933年ナチス党大会の記録映画だ。

レイ・ミュラーから『信念の勝利』について話をするようにいわれたレニは激しく抵抗する。
「重大事だから詳しく話したいの。こんなところ(旧スタジアムの客席)じゃいやよ。」
レニの抵抗にあい、2作目(『意志の勝利』)の話をうつろうとすると
「2作目の話に移る前に1作目についてきちんと説明したい。ものには順序がある」
「1作目は作品として仕上がっていない。もう党大会が始まっていて準備ができなかった。ヒトラーの指示どおりシーンをつないだだけで手法も何もないの。(監督の腕をつかみゆさぶる)ヒトラーとゲッペルズが大けんかし党が一方的に撮影を禁止したからなの」

党の撮影拒否に憤慨したレニはヒトラーに不平を訴えた。ヒトラーは激怒してこう言った。「2度と迷惑はかけないから来年も頼む」ゲッペルズは真っ青になっていたという。

その後レニはゲッペルズに呼び出された。レニが宣伝省の執務室に入ると「お前が男なら階段からけ落とすところだ。命拾いしたな。お前は本当に危険だ。我慢ならん。2度とおれの前に現れるな。」と怒鳴りつけたという。

レニの自伝にはゲッペルズから愛人になれと迫られたが拒否した、という話も出てくる。
以上のような理由でゲッペルズはレニに激しい憎悪を抱いていた、というのがレニの言い分である。

レイ・ミュラー監督は「ゲッペルズの1933年の日記にあなたが彼らの家に出入りしていたと書いてありますが...」と切り出す。するとレニは怒りをあらわにし
「ちょっと見せて。どこに書いてあるの?当時彼の家に行ったことも誘いもなかったわ。」
レニが一番取り乱している場面が実はここなのだ。不本意な作品を世に送り出してしまった原因をつくった(と称している)ゲッペルズへの憎悪をむき出しにしている。ナチス党大会の記録映画をつくったという事実などたいしたことではない、出来の悪い映画を作ってしまったことが腹立たしくてしょうがない、といわんばかりの激しいリアクションに多くの観客は戸惑っただろう。

グレン・B.インフィールドは『レニ・リーフェンシュタール―芸術と政治のはざまに』の著作のなかで、”現存する資料から判断するとゲッペルズはレニの映画つくりを積極的に支援している。レニはあえてゲッペルズとの対立を強調することによって、ナチスに対するアリバイつくりをしようとしている” と批判している。レニはゲッペルズと親しくつきあっていたのか?対立していたのか?ヒトラーのみならずゲッペルズとも親しくしていたということであれば、レニが"ナチの協力者"であることはどうあがいても否定できなくなるが...。真相は永遠に闇の中である。

 世界最高のプロパガンダ映画『意志の勝利』

世界最高のプロパガンダ映画として悪名高き『意志の勝利』の話に入ることにする。
レニは党大会には関心がなく、前述のとおりこの仕事を断りたがっていた。
「女優として楽しめる仕事がしたかった。政治的な理由で嫌だったわけではないの。でも実際のところ断るなんて不可能だった。でも最後まであきらめずニュルンベルクへ行った。そこで会議中のヒトラーに面会したの。彼はこう言ったの。”あなたの人生の6日間だけ私にください。6日だけです。党の映画監督ではなく芸術家に撮ってもらいたいのです”」
レニは引き受けざるをえなくなった。引き受けると決めた以上どうしたらニュース映画以上のものが撮れるかレニは頭を悩ませた。その結果、見事な芸術作品に仕上がってしまった。

「この映画は通常と違ってナレーションが使われていないでしょ?映像の説明がないの。記録映画とプロパガンダ映画を区別する特徴の一つよ。プロパガンダ映画なら党大会の意義を説明するためにナレーションが入るけどこれは違うの
『意志の勝利』はあくまで記録映画であり、プロパガンダ映画ではないとレニは言いたいのだろう。

そこで監督のナレーションが入る。“映画では画面構成の方が言葉より影響力を持つ。”
だがこのことを誰よりも知っていたのはレニ・リーフェンシュタール自身ではないだろうか?
100歳のとき48年ぶりに発表した海洋ドキュメンタリー『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』(2002)の冒頭でレニは以下のようなコメントを述べている。

「映像には解説を加えていません。映像は言葉よりも雄弁だと思うからです。」

「大群衆と一人の男ヒトラーという対比はとても目を引きます。これは意識的に?」という質問には
ヒトラーと国民という二つの題材だったから」とあっさり。
「政治に疎いあなたが演説を編集するのは難しかったのでは?」
「政治の知識ではなく技術の問題よ。2時間の演説を5分に縮める場合冒頭と末尾はそのままで、間に人々が最も熱狂した部分(=拍手が大きかった場面)を残す。編集者なら最も効果的な瞬間がわかるはず。政治の知識とは無関係よ。」
その後の「党大会のセットは壮大なものでしたがあなたが設計したのですか?」という質問にはさすがのレニも笑っていたが。「私が舞台設計にまで関与したと?私は党員でもないし建築家でもないから関係ないわ。こういう集団演出はモスクワや北京にもある。少し前北京や北朝鮮のパレードを見た?ありふれた演出よ。」なぜここでモスクワだの北京だの北朝鮮だのが出てくる?この映画の演出を見習ったのではないだろうか(笑)。その後「全身で創作に打ち込んでいる芸術家は政治的な思考をしない。偉大な作品を残した芸術家たちは皆そうだった。」「雇用と平和というのが『意志の勝利』のメッセージよ。かぎ十字だらけの映画や別の政治傾向の映画もあった。「意志の勝利』はそのたぐいではないので私が害を与えたとはとても思えない。そんな要素があったら戦争勃発の2年前にフランスから金メダルを贈られるはずないわ。政治的な観点に立って言えばこの映画は時代に合っていた。当時ドイツ人の9割と外国人の大半がこの映画の告げる平和を信じてたわ。」と一気にたたみかける。その一方『意志の勝利』のビデオを見ながら「このシーンは気に入っているの。祝祭的な効果がうまく高められているからね。」と嬉しそうに語ったりする。彼女にとっては映像美がすべてなのだ。撮影対象が何であるかということを気にかけている様子は見られない。

『意志の勝利』は現在に至るまでドイツでは上映が法律で禁止されている。日本では1942年に劇場公開されているが、その後ビデオにもDVDにもなっていない。アメリカではDVDが販売されている。



 『自由の日』、『オリンピア』、『低地』...

『意志の勝利』のあと、実は『自由の日』という約17分の短編映画を作っている。映画『レニ』ではこの作品については触れられていないが、彼女の自伝の中にそのエピソードが登場する。レニは『意志の勝利』に国防軍の演習場面を挿入しないことに決めていた。撮影日は天候に恵まれず、雨が降ったりしたため映像の出来がよくないためだという。そのことを聞いたフォン・ライヘェナウ将軍が激怒しヒトラーに報告。ヒトラーから妥協案としてこの短編映画の製作を命令されたようだ。『信念の勝利』『意志の勝利』『自由の日』は党大会三部作と言われている。

その後、国際オリンピック委員会(IOC)から依頼され、1936年ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』(1938)を発表。ヴェネチア映画祭最高賞を受賞するなど世界的に高い評価を受けた。依頼主はオリンピック委員会だが資金面などでドイツ宣伝省が強力な支援を行っている。ただし戦後になって美しく強じんな肉体を礼賛するイメージはファシズムを称えたと非難されるようになった。ただし完成度の高さは誰もが認めるところだ。2005年、TIME誌によるall time 100 movieにも選出されるなど、最高のオリンピック映画であるとの評価は今でもゆるがない。

参考 
民族の祭典
美の祭典

1945年、ヒトラー自殺。終戦後、レニは、ナチ協力者として逮捕される。
彼女の政治責任を問う裁判は長期化し、一時的に精神病院に収容されたこともある。1948年12月1日、非ナチ化審査機関は、レニを「同調者ではあるがナチスを支持したり、刑に当たる政治活動は認められない。」と判定した。だがレニが戦時中、特権的待遇を受けていたことは疑いようがないため世間の目は冷たかった。レニが謝罪しなかったことがこの風潮に拍車をかけた。「図々しく生き延びたあげく無罪まで勝ちとり、謝りもしないナチの女」を社会は許そうとしなった。大逆風にもめげず、レニは戦前から製作していた監督作『低地』を1954年2月劇場公開にこぎつけた。ジャン・コクトーが絶賛したにもかかわらず、上映を拒否する劇場が相次ぎ興行的に失敗。かつ裁判沙汰のおまけまでついてしまった。レニが『低地』の撮影中、エキストラが必要だったためジプシーを強制収用所から連れ出し「仕事の奴隷」として利用したと報道された。このことでレニは批判され続けつい最近まで裁判が行われていた。レニは自伝のなかで「ジプシーを選び出した収容所は、その時点では強制収用所ではなく、私はその選考に立ち会っていない」と疑惑をはっきり否定している。何やかんやで結局、死ぬまで続くことになるレニ・バッシングについて彼女は映画『レニ』の中で次のように語る。
「いったん汚名を着せられてしまうとレッテルをはがすのが難しく尾ひれもついた。最悪なのはヒトラーの女とか高官たちの愛人と言われたこと。強制収容所の放浪民を映画に使ったこともない。私についていろいろ書かれたり言われたりしてきたのは監督生命を絶つためよ。」
その言葉どおり『低地』を最後にレニの映画監督生命は事実上絶たれてしまった。

 ヌバ、ダイビング...

戦後20年レニはミュンヘンで母親と暮らした。
結局未完に終わった「黒い貨物」という作品の撮影で黒人に美を見出した。1枚の写真をきっかけに1962年にスーダン南部のヌバ族を訪れた。当時は西欧との接触がない古い部族社会であった。レニが写真と照明、パートナーであり、事実上の夫(40歳年下!)ホルスト・ケットナーがビデオカメラをもちヌバ族を撮影しまくった。そして1973年に発表した写真集『The Last of the Nuba(最後のヌバ)』が大評判となり、レニはアーティストとして復活をとげる。だが、作家のサーザン・ソンタクはニューヨーク・タイムズ誌上で"ヌバの写真はファシズムの映像化"と批判した。
「あんな知的な人がなぜばかなことを言うのか?本当に分からない。私はありのままのヌバを撮影しただけ。それなのに一体どこがファシズムだと?理解に苦しむことだわ。」
レニはため息をつく。肉体崇拝、強い力への礼讃といったレニの美学の要素はファシズムに結び付けられて解釈される。ちなみに1980年、東京西武美術館でヌバ写真展が開催されレニは来日している。



やがてレニは海の世界に魅せられるようになり71歳のときダイビング・ライセンスを取得。年齢制限があったため20歳若く申告した。1978年(76歳)に写真集『珊瑚の庭(Coral Gardens)』、1990年(88歳)で『水中の驚異(Wonder Under Walter) 』を発表。そして2002年、100歳のとき、48年ぶりの新作映画として海洋ドキュメンタリー『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を発表した。『ワンダー〜』は非常に美しい作品だが、往年の作品のように撮影アングルを駆使して対象の魅力を最大限に引き立てるような趣向がないため『オリンピア』のような芸術美を期待すると肩透かしをくらうことになる。ダイビング歴約30年にして初の映像化である。ヌバ族についても膨大なフィルムを撮影しながらその映像を編集しなかった。なぜ映像作品として発表しようとしなかっただろうか?単に発表の機会が与えられなかっただけかもしれない。ただ映画『レニ』の中でも指摘されているように、ビデオカメラはパートナー、ホルスト・ケットナーがまわしていたためレニの美的感覚にフィットする映像が少なかったからというのが実情ではないだろうか。前述のとおり写真はレニが撮影しており、写真集を数冊発売している。ただしレニは「写真は私にとって本質的なものではない」と断言している。

山々や名声の頂から今では底なしの暗く深い海底に向かうレニ。無人の世界だ。これは偶然か?

レイ・ミュラーのナレーションが響きわたる。
ポジティブな考え方をすれば、美を追求する彼女が人間のありのままの姿にひかれ、そして海の中に自然美を見出していくというのは必然的な道のりに思える。ただ、西欧との接触がなかった部族社会から無人の海底へ...。絶え間なく続く人々の悪意に耐えられずにたどった道だとも考えられなくもない。

2003年9月8日、ホルスト・ケットナーに看取られながら101歳でレニは帰らぬ人となる。
非常に安らかな死だったという。




私は被写体から最大の魅力を引き出して映画を作る

戦後 全国民の悪意が彼女に向けられた。リーフェンシュタールは排斥され今日なお映画を撮れない。殺戮、蛮行にかかわった者の処罰は軽かったのに...。『意志の勝利』は現在まで上映禁止。その暗示力が今も恐れられているのだ。映画はそれほど危険か?だれもが忘れたい過去の記録だからか?

このナレーションは映画『レニ』のテーマそのものだ。
そしてレイ・ミュラー監督は最後に問いただす。
「世間はあなたの謝罪を期待しています。」
もう何度も聞かれたことなのだろう。レニは比較的落ち着いて答える。
「では私の罪とは一体何ですか?1934年の党大会記録映画を撮ったのは後悔してるわ。あの時代に生きたことが私は残念でならない。反ユダヤ的主張は一度もないわ。反ユダヤでない証拠にナチス党員ではなかった。私の罪は何なの?原爆にも迫害にも無関係。私の罪は何ですか?

映画はここでぶった切るように終わる。
戦後半世紀以上に及ぶレニと大衆との関係を象徴するような終わり方だ。
「私はナチ党員ではなかった」レニが自己弁護のため何度となく使うフレーズだ。
だが、そのことが逆に世間を恐れさせているのだ。
ナチス党員でもなければ、軍人でもなかった。つまり必然性が何もなかったにもかかわらず、ナチに協力した民間人として、大半の人たちはレニの中にナチスの影を見てしまう。
レニが主張するように当時の大部分のドイツ国民はナチスを支持していたのだろう。
−あの頃の自分は『意志の勝利』を観た事でレニ・リーフェンシュタールに惑わされただけなんだ。−
当時ナチを支持していた人たちは、こう思い込むことによって過去の自分を正当化しようとしているのかもしれない。もしレニが謝罪したとしても、簡単には許してもらえなかっただろう。
レニへの批判は常に結果論で語られている。結果論で語る人々に対し、"当時の状況"を理由に反論したところで、話が平行線をたどることは目に見えている。

ではレニ・リーフェンシュタールは不条理な批判を生涯浴び続けたのかといえばそうともいえない。

ヒトラーの演説をはじめて聞いたとき、レニはその雰囲気にのまれてしまったと語っている。
焚書令、ヒトラーが語る差別意識丸出しの芸術論、少年徴兵...レニ自身も認めるとおりヒトラーに不審感を覚えることは山ほどあったはずだ。
結果的に終戦までレニはそれらのことに目をつぶってしまった。
1940年6月、独軍がフランスに侵攻したときレニはヒトラーに祝福電報を送っているのである。

“総統司令部 A・ヒトラー様。言い尽くせないほどの喜びと感動です。ドイツの勝利に感謝いたします。我が軍はパリに入城。人類史上最高の偉業を総統は見事に達成されたのです。最高の栄誉です。お祝いをのべるだけでは私の感動は表しきれません。”

このことに対してレニは
「フランス侵攻と独軍勝利に電報を打ったわけではないの。ドイツ中これで戦争は終わりと思った。皆が有頂天になっていたわ。3日間鐘が鳴り続け人は抱き合いキスをし戦争は終わったと喜んだ。この雰囲気に感動して電報を打ったのよ。」
レニは自分の美意識についてはあれほど頑固なのに、その他のことは簡単にその場の雰囲気に同調してしまうのか?

1938年最初のユダヤ人迫害事件が起こる。(水晶の夜)
その当時、レニはアメリカに滞在しており事件は後日知ることになる。
「事実とは思えませんでした。アメリカの新聞が書くドイツの記事は間違いも多かったのでそれは偽りの記事だと思ったの。"当地の新聞のドイツ報道は真実ではない"と言ったわ。アメリカでは新聞の一面いっぱいに"ユダヤ寺院炎上 商店破壊 ユダヤ人迫害される"と報じられると同時に"リーフェンシュタール 米紙を虚偽報道と”の記事。本当にうそだと信じた私は各地で"あれは間違いだ"と」
彼女は戦争が終わるまでナチスによるユダヤ人迫害をウソだと信じきっていた。
自分の信じたものに対しては盲目になるタイプのようだ。
“美”以外にレニが信じたもの、それがヒトラーだったのだ。
「当時映画の影響力は強大でした。ラジオもテレビもない時代。映画監督として責任を感じませんでしたか?」という問いかけに対しレニは「どんな責任?当時民衆の9割がヒトラーに夢中でした。抵抗運動の闘士にでもなって少数派に加わるべきだったと?」とかわしその後「私は被写体から最大の魅力を引き出して映画を作るの政治的な内容でも野菜でも果物でも監督の姿勢は同じ。」と言い切る。
芸術美を発信する立場からみると、描く対象が野菜でも果物でも政治でも同じなのかもしれない。
ただし芸術美を鑑賞する側では、野菜や果物と政治とでは全く意味合いが違うのである。
ひたすら美しく描きたいとねがう発信側、それを受け止める側との感覚の違いーレニの悲劇はこのことに最後まで気づかなかったことが原因かもしれない。
『意志の勝利』はその映像の美しさゆえナチスとヒトラーを神格化したと言われている。
『意志の勝利』を筆者も見たが、冒頭ヒットラーに熱狂する大衆からラストのヒトラーの演説までカメラアングルを駆使して非常に美しく描かれている。そのため、2時間弱全く飽きることなく観ることができた。内容はあくまでナチス党大会の記録である。絶対に楽しめるはずがない題材なのに...。

人は美しいものを目で楽しむだけではない。それを心で受け止めようとする。
“最大の魅力を引き出す”対象はやはり選ばなければならないのだ。
レニ自身、遺作となった『ワンダー〜』の中で以下のようなコメントを残している。
私の作品を観た人々が心を動かされ失われつつあるものを大切にするようになること。それが私の心からの願いです。」

『意志の勝利』は観客の心に訴えかけなかったというのはレニの訥弁にすぎない。
ただ「私の罪とは何ですか?」というレニの問いかけに即答できる人はいないだろう。
レニ・リーフェンシュタールという女性の存在をどう解釈するかは個人差がかなりあると想われる。

ちなみに、スティーヴン・スピルバーグ監督は、2008年北京五輪の技術顧問に就任することが決まっていた。だが女優のミア・ファローに「スピルバーグ氏は、中国がダルフール大量虐殺に資金を供与していることを認識しているのだろうか?彼は『北京五輪のレニ・リーフェンシュタール』として歴史に名を残したいのか?」と強く批判しされたことを深刻に受け止め、最終的には技術顧問を辞任している。
"北京五輪のレニ・リーフェンシュタール"の言葉はかなり強烈だったようだ。
参照 ミア・ファローさん、北京五輪の特別顧問、スピルバーグ監督を非難 - 米国
スピルバーグ監督、北京五輪の芸術顧問を辞退


ダンサー、女優、映画監督、写真家20世紀を4回生きた、今世紀最強の女性”(映画チラシより)を描いたこのドキュメンタリーは圧倒的に面白い。この面白さには並の娯楽映画が束になって立ち向かってもかなわないだろう。上映時間182分はあっという間である。

レニ・リーフェンシュタールの映画監督としての才能を否定する人はいない。
映画史を語るうえで彼女の名前を絶対に外すことはできない。
何しろ史上最高のオリンピック映画とプロパガンダ映画を作ってしまった人なのだから。
『レニ』は映画ファンを自負する人なら必ず見ておくべき作品である。
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レニ@映画生活


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2020.09.28 Monday | 21:51 | - | - | - |

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