映画のメモ帳+α

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天安門

天安門(1995 アメリカ)

「天安門」映画チラシ原題   THE GATE OF HEAVENLY PEACE  
監督   カーマ・ヒントン リチャード・ゴードン
脚本   ジェレミー・バーム ジョン・クロウリィ
撮影   リチャード・ゴードン                  
音楽   マーク・ペヴスナー               
(ドキュメンタリー映画)  

ミハイル・ゴルバチョフ書記長が、「ペレストロイカ」を表明しソ連の民主化を進める中、中華人民共和国でも、1986年5月に胡耀邦総書記が言論の自由化を推進し、国民から支持を集めた。それを快く思わない小平らの党内の長老グループや保守派によって1987年に胡耀邦は失脚させられた。1989年4月、改革派と呼ばれた胡耀邦の死をきっかけに民主化を求める学生たちが天安門に集まり始めた。学生を支援するデモ隊を含めると最盛期においてその数は50万人とも100万人ともいわれる数まで膨れ上がった。そして1989年6月4日、「人民解放軍」による戦車が北京市内に侵攻。争乱を繰り返す市民に対して無差別に発砲し多数の死傷者が出た、とされている。これがいわゆる天安門事件。『天安門』は世界中を震撼させたこの事件を、中国生まれのアメリカ人カーマ・ヒルトンと中国関係の映画を多数手がけた実績をもつリチャード・ドンゴンの2人が250時間を越す映像資料を分析し、6月4日に至るまでのプロセスをまとめあげたドキュメンタリー映画である。

1989年6月4日におきた事件を”天安門事件”と呼ぶことが一般的であるが、厳密にいうと”天安門事件”は1976年4月5日にも起こっており、区別する意味で1976年4月5日のほうを四五天安門事件(第1次天安門事件)、1989年6月4日のほうを六四天安門事件(第2次天安門事件)と呼ぶこともある。1976年のほうは穏健派と呼ばれた周恩来追悼のためにささげられた花束を北京当局が撤去したことに激怒した民衆と警察・軍が衝突した事件である。2つの”天安門事件”は双方とも穏健派といわれる政治家の死がきっかけになっている。追悼集会で人々はこう叫ぶ。”死ぬべきものは生きて、生きるべきものは死んでいる”。

この記事では1989年のほうを”天安門事件”と記して話を進めていくことにする。

 妥協を知らない学生たち

冒頭から2分足らず、戦車を止めようとする若者の映像が映し出される。
無名の反逆者」(the Unknown Rebel)、「戦車男」(Tank Man)と称され、中国民主化運動の象徴として世界中に流された映像だ。そのインパクトの大きさは1998年4月のTime誌が「無名の反逆者」を「20世紀最も影響力のあった人物100人」に選ぶほどであった。参考
中国政府はこの映像を次のように解説する。
「常識のある人間ならわかる。戦車が前進を続ける決意かどうか。不良分子に戦車は止められない。この場面はビデオに録画され、西側のプロパガンダに使われる。我々の兵士が高度な訓練を受けている証拠だ」
この”解説”が必ずしもピント外れの弁明とは言いきれないことが後にわかってくる。

chinese tanks blocked by a man at tianamen square



共産党機関紙「人民日報」は4/26の社説で学生デモを”動乱”と呼び対決姿勢をあらわにした。この時点で政府が徹底的な弾圧に出ることが暗示されていたといってよい。

労働者や知識人も学生を支援した。
北京市公営交通公司の切符販売員をしていた趙洪亮(Zhao Hongliang)は
「もし学生が間違いを犯しているなら警察や軍は必要ない。僕ら労働者が学生をぶちのめす。だが学生は正しかった。心は労働者と同じだ。だから学生を支援した」

ジャーナリストの載晴(DAI QING)は
「私が支援した理由は学生が党の基本理念を争点としてたからよ。政治犯をでっち上げる党の本質を。学生には信念があった。命と将来を賭けて体制の不正と闘ってたの」

5月4日、趙紫陽は社説とは違う演説を行った。
「国内に暴乱はない。対話こそが現在の緊張を解く道なのだ」

学生は討議した。
大学に戻るか?趙紫陽の懐柔案に乗るか?党の上層部が分裂しているとしてもっと揺さぶりをかけるか?大半が大学に戻った。

この当時のことを大学講師の梁暁燕(Liang Xiaoyan)は次のように語っている。
「5月8日に自治会連合のリーダー数人が私に相談しに来たの。(趙紫陽の懐柔案を受け)学校に戻った学生を批判し教室を封鎖したい」
私は言った。
「民主化を求めてるんでしょ?民主主義の基本は個人の尊重よ。個を認めないならあなた方が批判している党と同じじゃない
彼女は続いてこう言う。
「中国では物事はいつもこう。目的達成のために異物を排除しようとするの
中国に限ったことではないような気がしなくもない。共通の目的を掲げたはずの集団が、内部統一を図るため結果として”敵”と同じ方法論に走るというのはあまりによくある話である。そしてそのことは結果として内部分裂を引き起こすきっかけとなり組織を崩壊させる。

王丹Wang Dan)と柴玲CHAI LING)は運動の失速を恐れ、ハンガーストライキを提案するがなかなか自治会連合のコンセサイスを得られない。
5月13日、柴玲が説得しようやく学生はハンガーストライキに入る。
15日にゴルバチョフ来中を控えた政府は慌てた。5月15日に天安門で歓迎式典を開くなら、その前に”掃除”しなければならない。その天安門は学生たちに占拠されていたのだ。

5月14日に対話が実現した。
学生は実況中継を要求したが政府は録画放送を主張。学生側が譲歩した。
ところが広場の学生に映像は届かず、実況中継を求めた学生たちは対話の中止をもとめて会場へ向かう。結局、会談は決裂。このときのことを中心人物のひとり吾尓開希(WUER KAIXI)はこう語る。
「録画放送だって大きな前進じゃないか。5月14日で学生運動は後退した。これ以降も学生は同じ過ちを繰り返した」

15日にゴルバチョフは予定通り訪中。天安門での歓迎式典は中止され、空港で簡単に行われた。デモ隊がゴルバチョフを「改革派の一員」として歓迎する場面が外国メディアによって報道された。ゴルバチョフはそれを計算に入れ、あえて予定を変更しなかったといわれている。

ハンストの学生を見舞い、対話に応じるなど学生の主張に理解を示していた趙紫陽が5/19の未明突然広場に現れ、涙をためて趙は学生に語った。「手遅れだ。批判は甘んじて受ける」
翌20日、戒厳令が布告される。

この時のことを載晴は次のように語る。
「改革はがたがたよ。小平に次ぐ実力者だった趙紫陽が失脚してしまった。学生は趙の妥協案に耳を貸さず手を組もうとしなかった。彼が失脚すると次は強硬派の出番よ」
学生の過激な行動が、頼みの綱であるべき穏健派・趙紫陽失脚の原因となってしまったのだ
革命をおこそうとするとき、ある程度妥協してもそれは前進であるという考え方と少しでも妥協したら負けだという考え方に別れて内部分裂するというのはお決まりのパターンだ。若者は後者の考え方に走りがちであるがその結果悲劇を招き、結果として道のりが後退してしまう。アイルランド独立戦争時の若者を描いた『麦の穂をゆらす風』(2006)でもその点はじっかりと描かれている。趙紫陽を失脚に追いこんでしまったのは、学生側最大のミステイクである。

緊張感を増す天安門。軍隊は抗議の人垣により前に進めなくなる。
ある男性は兵士にむかって語りかける。
「人民解放軍の将校 および兵士諸君。君らの勇気に訴える真の人民軍たれ。一部の集団の走狗となるな。祖国を辱める行動はするな」
中年女性はヒステリックに叫ぶ
「私たちの兄弟の兵士よ。わかってるの?知っているの?何をしようとしてるのか。あなたたちは人民を守る兵士なのよ。学生を攻撃してはいけない。分かってる?いけないのよ!」
学生とさほど年の変わらない、若い兵士たちはうつむき涙ぐむ。

知識人が学生と労働者とのミーティングを画策し5月23日以降、連日会談。
そこで5月30日に解散することがいったん決められる。
柴玲も一度は同意した。
だがすぐ反対にまわる。
「解散を決めた人たちは運動を失速させました。解散決定があれほど悪影響を及ぼすなんて」
王丹はややあきれ気味にいう。
「彼らの感情的なアピールには負ける」
こういうケースでは感情に訴えるラジカルな主張のほうが目立つ。
結果論で言うのはフェアでないが、ここで解散していれば6月4日の悲劇は起こらなかったはずだ。

王丹が1994年に書いた「下からの民主主義の建設」という論文に以下のような記載がある。

「89年の運動が我々に何を教えたかと、一言で言えば、我々は準備不足であり、当時の状況を正しく認識していなかったことである。...各民主勢力が運動に参加する前には共通の認識を持つことができなかった。結果として、これは最終的に天安門広場を撤退するかしないかという議論につながった。こういう状況になると、一つの戦略の下にエネルギーを集中することが不可能となり、その時にはもはや準備する時間がないからである。」
引用・参考元

なぜ学生は広場に残ったのか?目的は民衆を起こすこと、らしい。
広場ではいつも継続派が多数を占めた。解散を望む者は一人で立ち去った。

 広場が血に染まって初めて民衆は目覚める

中華人民共和国への「返還」を8年後に控えた香港から支援物資が届く。
柴玲は「戒厳令は必ず消滅します。10日後か 1年後か 100年後かに必ず!人民の心を失った者は消滅します。李鵬の非道な政権を倒しましょう」とお得意のパフォーマンスをする。しかし、その日の翌日、米国人記者カニンガムのインタビューに答え柴玲はこのように語っている。

「近頃とても悲しいのです。学生は民主化の意識が欠けています。ハンストを決めた日から、結果は出ないと分かっていました。挫折していった人たちもいます。すべて分かっているんです。でも弱みは見せられない。目指すは勝利だと言わないと、でも心の奥では空しかった。のめり込むほど悲しくなって。4月からずっとそうです。でも胸に秘めていました。中国人の悪口は言いたくないけど、時々はこう思わずにはいられません。あんたら中国人のためになんで私が犠牲になるの!」

「学生はいつも「次は何をする?」と言います。私は悲しくなります。目指すは「流血」なんて誰が言えます?政府を追いつめて人民を虐殺させる。広場が血に染まって初めて民衆は目覚める。それで初めて一つになれる。これを学生にどう説明するんです?」

この場面を劇場で見たとき、まさに衝撃が走った。それまで柴玲の撤退拒否姿勢は若者らしい一本気であると思いながら観ていたのだが、政府に事を起こさせるために計画的に行っていたとは...。彼女は「中国人のために私は犠牲になりたくない」ヒトである。つまり私以外の誰かの血を献上して民衆を目覚めさせようとしたのである。そのくせ、撤退を主張した人を「政府のために働いた。政府が事を起こす前に撤退を企んだ」と決め付けた。撤退は必ずしも「運動の崩壊」と同じ意味ではなかったと思うのだが。武力弾圧が実行され死んでしまえば民主化運動は実践できなくなるではないか?
柴玲はこの後「あなたは広場に残りたい?」という質問に「いいえ」と答える。理由を聞かれると「私は司令官でブラックリストに載っているから。政府に殺されたくはありません。私は生きたい。人は私を自己本位だと言うかもしれない。でも誰かが私に続いてくれる民主化運動は一人ではできません。」
彼女は自分ひとりで民主化運動をやっているつもりだったのだろうか?取材の後、柴玲は録音テープを海外に持ち出すように頼み、今から北京を離れ地下に潜ると言ったという。しかし彼女は辞任をとめられ、結局天安門広場に残る。「少し休息をとって新しい指導体制を作ります。運動は広場にとどまるべきではなく国中に広がっていくべきです。私は国中を旅したいと思っています。香港とかほかの所も。外の状況を見て決めたいんです。天安門の闘いをいつまで続けるか」

この映画の話で必ず持ち出されるのがこの柴玲の「広場が血に染まって初めて民衆は目覚める」発言である。アメリカで公開されたとき一番物議を呼んだのもこの場面だ。
だが個人的には、彼女の発言で一番問題視すべきなのはこの箇所ではない、と思う。

台湾の人気歌手侯徳健(HOU DEJIAN)らが軍とひそかに交渉をすすめ、学生を説得し6月4日午前5時、ついに「撤退」が決まった。"インターナショナル"という歌を歌いながら学生が天安門広場からの退去を終えたのは午前5時半ごろだった。民主化運動の中心人物であった吾尓開希や柴玲は、既に広場を脱出していたといわれている。
参考

 本当に天安門広場内で大虐殺が行われたのか?

6/4から数日後、地下に潜伏していた柴玲は香港経由でメディアに接触。「私はまだ生きています」ではじまるメッセージを発表した。
「政府や軍隊に対してまだ幻想を抱いている学生もいました。最悪の場合でも軍による強制排除だと思っていたのです。学生は疲れきってテントで眠っていました。彼らは戦車にひきつぶされたのです。殺されたのは200人だと言う人もいます。4000人の学生が殺されたと言う人もいます。正確な数はわかりません。」(太字筆者)
彼女の発言中、一番問題にすべきはここだと個人的には考える。
柴玲はいつ、どこで"彼らが戦車にひきつぶされた"のを見たのだろうか?

映画では柴玲の"地下からのメッセージ"は上記のほか、中国人に”打倒軍事政権!”と呼びかける部分しか紹介されていない。だが”正確な数はわかりません”のあと、以下のような発言が続いている。

「広場の最も外側にいた労働者自治会の人は、血を浴びながら戦い、すべて死んでしまいました。彼らは少なくとも20〜30人はいました。聞いた話では、(太字筆者)学友たちの大部分が撤退した時、これらの戦車や装甲車はテントに、また学友たちの死体にもガソリンをかけ、すっかり焼いてしまい、それから水で洗い流したので、広場には何の痕跡も残っていないそうです。」。引用元

このメッセージは香港のラジオ、テレビで6月10日に放送、6月11日香港『明報』ほか各紙に掲載された。この箇所が映画に採用されなかったのは"聞いた話による"、何の根拠もない発言だったからだと思われる。

柴玲と違って最後まで広場にいた侯徳健は以下のように反論している。

「死者は200人だとも2000人だとも言われてる。逃げまとう学生を戦車がひき殺したとも。僕はそれを見ていない。場所もわからない。朝の6時半まで僕も広場にいた。ウソつきの敵をウソでもって攻撃するのか?事実では足りないのか?敵のウソをウソで攻撃して気が晴れてもかえって危険だ。ウソがあばかれたら戦いの分が悪くなる。」

カーマ・ヒントン監督はドキュメンタリー映画『天安門』製作にあたり柴玲に何度も出演交渉したという。柴玲は最初「忙しいから」とかわし続け「それなら待つ」と回答されると最終的に「ドキュメンタリーでは真実が伝えられないから」という理由で断ってきたらしい。ならば一体どのような手段であれば真実を伝えられると彼女はいうのだろうか?おそらく「私に都合のよい、私にとっての真実」を演説して一方的にマスコミに垂れ流すことなのだろう。

柴玲の出演が実現しなかったため、5月28日夜に米国記者フィリップ・カニンガムが撮影した柴玲のインタビュービデオを大幅に採用することになった。これについては亡命した活動家たちから「中国政府の陰謀である」との非難をあびた。もちろん映画制作にあたっては中国政府からも有形無形の圧力を受けたようだ。両サイドから批判されるということは、この映画がどちらの側にもたっていない何よりもの証拠である。

さて天安門事件を語るとき必ず話題になることがある。
「結局、死傷者は何人だったのか?」
死者に限ってみても200人から10,000人までさまざまな説がある。
なぜこんなにも差が出てくるのだろうか?
その疑問は「本当に天安門広場で虐殺が行われたのか?」という問題と大きく関係してくる。

大虐殺、といわれる事件には「あった」「なかった」の論議はつきものだ。
だが、この天安門事件については、少なくても広場内では虐殺は行われていない、というのがもはや定説となっている。ほとんど知られていないのは、事件当時大半のメディアが「天安門広場で中国政府が学生を大虐殺した」と派手に報道してしまったためしめしがつかなくなり、誤りを訂正しないまま放置しているからである。最後まで広場にいた前述の侯徳健や評論家劉暁波(Liu Xiaobo)も、「広場内で、人民解放軍が学生にむけて発砲したり戦車でひき殺したりしたのは全く見ていない」と断言している。同じく最後まで記者に残っていたスペイン国営放送の記者、レストレポ記者も”広場内での武力行使”をはっきり否定している。彼らに人民解放軍をかばうメリットはない。

ではなぜ「天安門広場大虐殺伝説」が生まれてしまったのだろうか?
戒厳令下で外国の報道機関の取材は大幅に制約されていた。
事件当時、広場内に立ち入ることができたメディア関係者はほとんどいなかった。そのため各メディアは、学生から”聞いた話”をもとに記事を書き上げ「天安門広場大虐殺伝説」を作り出してしまったのだ。学生は恐怖と混乱のあまり、広場の外での出来事を、広場内であったかのように誇張して話す。
兵士たちが大きなビニール袋をもって広場内の清掃作業をしているのを見ると「兵士たちが大きなビニール袋に学生と市民の死体を収めている光景が見えた」とコメントする。
彼らはビニール袋に納められたのが人間だったことを実際に確認したわけではない。
柴玲の「学生は疲れきってテントで眠っていました。彼らは戦車にひきつぶされたのです」発言も同じだ。実際に学生がテントで寝ているのを確認したわけではないのだ。前述のレストレポ記者は「広場はスピーカーの音や演説や戦車の音などでとても寝てられるようなものではない」と証言している。

この映画でも周囲を取り囲む人民解放軍にむかって「ケダモノ!」とおちょくるように叫ぶ学生に対して兵士が空にむけて威嚇発砲する映像が出てくる。流れ弾にあたった犠牲者はいただろう。

この映画のなかにも、この事件で息子を失った丁子霖(Ding Zilin)が登場する。
犠牲者の大半は天安門広場の外での出来事によるものである。
人民軍に対し火炎ビンをなげこむ学生たちや人民軍の車にかけより武器を奪おうとする民衆。この映画にもそんな映像が出てくる。

広場内で発砲しなくても大量の死傷者が出たのだから結局は同じじゃないか?と思う人もいるだろう。
だが、人民解放軍は民主化を求めて広場に集まった学生にむかって直接発砲したのか?
戦車で無残にひき殺したりしたのか?この正否を明確にすることは道義上大きな意味があると考える。
ここで前述の「無名の反逆者」のビデオをもう一度みてみる。中国政府は次のように解説している。
「常識のある人間ならわかる。戦車が前進を続ける決意かどうか。」
戦車は学生をよけて曲がろうとしている。どうみても学生をひき殺そうとしているようには見えない。

1989 Tiananmen Square Protests



この映画のPRで来日したカーマ・ヒントン監督はインタビューに対し、以下のように答えている。
少し長いが一部引用させてもらうことにする。引用元

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Q:映画を見ると、天安門広場では死者は出なかったという印象を受けますが。

A:そのように言うべきではありません。「死者が出なかった」、このような言い方は決め付け過ぎです。私は天安門広場そのものでは、大規模な虐殺はなかったと考えています。流れ弾に当たったり、戦車にひき殺されたりした人が何人かいたのかもしれませんが、我々は知ることができませんでした。私は「広場では絶対に死者はでなかった」という言葉に責任は持てません。ただし、大規模な射殺、数十、数百人の死者が出たかどうか? 私の入手できた資料では、出ていません。

Q:死者が出たならば、それは広場の中でも外でも同じことでしょう。映画の中で侯徳健の話が引用されていて、彼は朝の6時過ぎまで広場にいたが、広場での死者を見ていないと言っています。あなたはどんなことを伝えたかったのでしょうか?

A:政府が銃や戦車で平和的な抗議に対処する、それはどんな場所で発生しようと間違いです。どこで死者が出て、どこで出ていない、ということを区別することにあまり意味はありません。ただ、一つの確かな歴史的な出来事を伝える上で、学生側としても、どこで死者が出たのか、どこで虐殺がありどこで無かったか、道義的な意味では区別する必要があります。つまり、実際に大きな犠牲を払ったのは多くの労働者、市民と一部の学生でした。彼らは市内の道路で撃たれて負傷したわけです。一方、広場中心の記念碑に集まっていた人々は最後は軍隊と談判し、広場から撤退したわけですが、そこでは銃撃、虐殺に遭ってはいません。にもかかわらず、中国から脱出してきた一部の人は、「我々が記念碑から下りると、また機関銃が我々を撃ち戻した」と言い、柴玲は去年でもまだアメリカの記者に「銃弾は私を選ばなかった」と言っていました。この言い方はあまりにも度が過ぎている。それでは「私は銃弾の雨の中から逃げてきたもので、私は銃撃と出くわした」ということになる。銃撃を受けなかった彼女が、自分はあのような虐殺に遭ったと言うのは本当に亡くなって犠牲となった人たちに対して不公平なものです!

Q:だから映画の中で事実をはっきりさせたかったわけですね。

A:そうです。さらに政府についても区別すべきことがあります。政府の目的が、死者を出しても天安門広場を奪回することであったとしても、それが政府が抗議者全員の皆殺しを望んだということにはならず、そのように誇張すべきではないのです。アメリカ人が持つ一般的な印象は、人民解放軍が広場の外から攻め入り、一路天安門の中心までずっと殺し続け、逃げおおせた人はごく一部の幸運な者だけだったというものです。このような印象とは異なり、実際には、軍は天安門まで進軍しようとし、途中多くの妨害を受けたため、死傷者を出すことをも顧みず、銃撃して妨害を排除し、天安門までたどり着いて広場を包囲した後、命令を待ちました。結局、侯徳健らの広場からの撤退案を受け入れたのです。私としては、それらは性質的に異なるものであると思います。 政府が銃を撃ったから何でも言っていいということにはなりません。実際に発生していなかったことまで政府に押しきせするのは、道理に合わないことです。

(黄字強調:筆者)
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天安門事件は英語で Tiananmen Square Massacre(天安門広場大虐殺)と呼ばれているがこの映画の中ではBeijing Massacre(北京大虐殺)という表現をラストで採用している。

北京オリンピックを間近に控えた現在。チベット問題を「天安門事件の再来か?」と評する記事を時折見かける。“中国政府による弾圧”という漠然としたイメージで、全く違う性質のものをひとくくりにして考えるのは危険だ。それぞれ歴史、社会的な背景が異なるものであり、”自分が信じたい内容”に無理やり翻訳して理解しようとすることは極力避けたいものだ。

犠牲者の大半は見物人か人民軍の前進をはばんだ人たちだ。
撤退しても数日間、学生と軍隊の子ぜり合いが続き、多数の犠牲者が出た。
学生運動の参加者たちは「国家の転覆を企てた」として次々と逮捕。
学生を説得しようとした知識人、載 晴や評論家劉暁波 侯徳健も含まれている。

現在、中国ではYahoo、msn、googleなどの大手サイトで「天安門事件」については接続規制がかかっているらしい。そのため若い世代は事件のことをほとんど知らない。海外に出てはじめてその詳細を知る有様らしい。第三者から見ると情報を隠せば隠すほど疑惑が膨らむと思うのだが、大量の死傷者が出たことまでは否定できないゆえの措置であろう。事件から19年たった今でも中国では「天安門事件」はタブー中のタブー。もし中国人に知り合いがいてもこの事件のことを話題にしないほうが賢明だと思われる。

この映画で気になるのは中国当局側の視点が欠けていることだ。
監督のカーマ・ヒントンは、いろんなツテを頼って誰かに話を聞こうと試みたが、「絶対に不可能」という答えしか返ってこなかったらしい。

中国共産党からの発表を中国国民はほとんど信じていない。
前述の侯徳健や評論家劉暁波の「広場内で発砲はなかった」という発言も、共産党機関紙『人民日報』を通して出された声明だったため、中国国民からは黙殺されてしまった。だが、いくら政府が信用できないからといって、それをウソで攻撃するのは結局「同じ穴のムジナ」ではないか?カーマ・ヒントン監督は記者会見で、中国政府も学生リーダーたちも自分が正しいという立場に立って、何かを隠している、と語っている。

天安門事件以降、中国の民主化運動は急激に衰退していく。
広場が血に染まらなかったために、結局民衆は目覚めなかったのだろうか?
そうは思いたくないものだ。

北京労働者自治連合会責任者のひとり、韓東方(Han Dongfang)のコメントである。

「怒りを吐き出したい。だが恐ろしい過去の例を知ってるからね。群集にまぎれていれば安全だ。飛び出して叫んではまた群集にまぎれる。だが誰も言動に責任を取らない。僕はそれが心苦しかった。僕は率先してまず名乗ってから話した。言葉に責任を負う意思表示だ。社会を変えるにはまず自分を変えなければ

リアルタイムで劇場鑑賞したドキュメンタリー映画の中で、個人的には『レニ』(1993 ドイツ・ベルギー)と並んでぶっちぎりのベスト作品である。この映画は”天安門事件のドキュメンタリー”の枠にとらわれず実にさまざまな問題を投げかけてくるからだ。

配給元のアップリンク社が日本の放送局に映画放映権を売ろうとしたら、どの局からも断られたらしい。この映画を放送することで中国特派員が国外退去処分などになるのを恐れたことがその理由のようだ。TVではまず放送されないだろうが、ぜひ機会をつくってDVDで観てほしい作品。どんな民主化運動の中にもその背景には社会と歴史とそれぞれの人生がからみあっている。天安門事件が“政府が抵抗する市民を武力をもって弾圧した”という単純な図式では語ることができないことを教えてくれる映画である。
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主な参照資料
The Gate of Heavenly Peace Transcript
映画『天安門』監督カーマ・ヒントン氏インタビュー
「天安門広場の虐殺」伝説の創出・伝播とその破綻
 映画の中に出てくる台詞は、すべてDVDの字幕より引用しています。

2009/6/3  追記 
天安門事件から4日で20年、元学生リーダー王丹氏が心境を吐露


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2018.09.16 Sunday | 02:24 | - | - | - |

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