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沈黙 -サイレンス-

沈黙 -サイレンス- (2016 アメリカ)

沈黙 -サイレンス-(2016)原題   SILENCE
監督   マーティン・スコセッシ
原作   遠藤周作 『沈黙』(新潮文庫刊)
脚本   ジェイ・コックス マーティン・スコセッシ
撮影   ロドリゴ・プリエト
音楽   キム・アレン・クルーゲ キャスリン・クルーゲ
出演   アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライヴァー 浅野忠信
     キアラン・ハインズ 窪塚洋介 笈田ヨシ 塚本晋也
     イッセー尾形 小松菜奈 加瀬亮 リーアム・ニーソン

第89回(2016年)アカデミー賞撮影賞ノミネート

作家の遠藤周作氏は日本人とキリスト教の関わりを探索することをライフワークとしていた。1966年に発表した『沈黙』は、島原の乱が鎮圧されたあと、キリシタン弾圧の最中、布教のため日本に潜入したポルトガル司祭ロドリコが日本人信徒たちに加えられる残虐極まりない拷問、そして殉教していく姿をみて苦悩する姿を描いた作品。"神の沈黙"という究極のテーマを描いた本作は大変な反響を呼び、世界20カ国以上で翻訳され、戦後日本文学の代表的作品としての地位を確固たるものとする。万人に受け入れられるタイプの小説ではないが、教科書に掲載されたり読書感想文コンクールの課題として取り上げられることも多いため一読したことのある人は多いだろう。その『沈黙』の映画化が『沈黙 -サイレンス-』である。アメリカ映画界の巨匠マーティン・スコセッシ監督渾身の企画として早くから知られていたが、『沈黙』発刊から50周年の2016年、ようやく劇場公開された。

『タクシードライバー』(1976)、『レイジング・ブル』(1980)などをへて"現存するアメリカ最高の映画監督"と評されるようになっていたマーティン・スコセッシ監督が『沈黙』に出会ったのは『最後の誘惑』(1988)を撮り終えて間もないころ。『最後の誘惑』はユダを"神の使命を受けて裏切りをさせられた男"として描き、さらにイエスが死ぬ直前、"結婚して子供をもうけ普通の男として生きていく"ことを夢想する場面を挿入したため、製作前から大変な物議を醸し、上映反対運動も巻き起こった作品。その『最後の誘惑』の聖職者向け上映会がニューヨークで行われた。スコセッシは『最後の誘惑』の騒動にのまれ、自分の信仰心を見失っていた時期だったそうた。その上映会で知り合ったポール・ムーア大司教から『沈黙』の本をプレゼントされる。スコセッシは読了後"自分が長年抱えていた問題がここに描かれている"と大きな衝撃を受け、即映画化を決意。1991年、NYを訪問していた遠藤氏に会って映画化を依頼する。(遠藤氏は「実現するといいですね」と言葉少なに語っただけだったそうだが、スコセッシが作品に対する思いを熱心に語る姿に感激し、出来上がりを楽しみにしていたらしい)だが、そこからが苦難の日々。映画化権獲得後、納得のいく脚本ができあがったのは15年後、2006年12月のこと。ちょうどその頃スコセッシは『ディパーテッド』(2006)のPRで来日し、「本当はこの映画を作りたくなかった。『沈黙』を先につくりたかった」と爆弾発言をしていますね。参照 

そこから先も製作上のトラブルなどでなかなか進展しない。2009年にダニエル・デイ=ルイス、ベニシオ・デル・トロ、ガエル・ガルシア・ベルナルらの出演が決まり、役所広司の出演も噂されていると報道された。2011年12月スコセッシは『沈黙』が次回作になると発表。しかし他の企画を優先し、棚上げし続けたため製作会社から訴えられたりした。トラブルの連続にスコセッシは「何が起きてもこの企画が流れてしまうことだけはないように」と周囲に頼み込んでいたという。撮影は2015年1月30日から5月15日まで台湾で行われた。(台湾での撮影にあたっては、アン・リー監督などが協力してくれた。長崎での撮影は費用がかかりすぎるため断念したのだとか)編集に1年半費やし、2016年12月23日、ようやく全米公開の運びとなる。




 遠藤周作氏と劇団『樹座』
ここからは少し映画を離れ、個人的なことを書かせていただく。

僕が遠藤周作氏の本をはじめて読んだのは大学生のころ。
本屋で見かけたエッセイ集(たしか「あまのじゃく人間へ」だったかな...)を手にとったのがきっかけだった。
その後、友人に勧められたこともあり、遠藤氏の"狐狸庵もの"と呼ばれるエッセイ集を何冊も読んだ。
そのエッセイ集にはよく遠藤氏が主宰する素人劇団"樹座"の話が出てくる。
面白そうだな、機会があれば出たいなと密かに思っていた。

ある日、遠藤氏が連載していた雑誌のエッセイを読んでいるとある文字が目に留まった。

劇団"樹座"出演者募集!

迷った、迷った、さんざん迷った。
何せ"狐狸庵もの"をよく読んでいたので樹座の出演者選考基準がどういうものかよく知っていたからである。
演技も歌も下手な人が望ましい....。
僕は演技は未知数だったが、歌は残念ながらそこそこ歌えるのである。
ましてまだ学生だし、応募しても落とされるな、と。(まあ、傲慢なこと)
どんな理由であれ、落とされるのは気分のいいものではない。

応募しようかやめとこうか悩みに悩んだ末、好奇心に勝てずダメモトで応募してみることにした。
面接はあったはずだが(日活の撮影所だった?)はっきり言って何も覚えていない。
歌をちょっと歌わされたかな...顔見せに近いレベルのものだったと思う。

結果は...合格。えっ、下手に歌った覚えはないぞ(笑)。
後で聞いた話だが、男性陣は人数が不足しておりよほど変な人でない限り合格したらしい(^^;
女性は結構、競争率が高かったようですが。

何はともあれ憧れの?樹座の舞台に出演が決まった!エッセイで読んだ通り、老若男女、年齢層幅広く和気あいあい。僕は最若年層グループだったがむしろ同世代の友達といるより楽しいくらいだった。舞台の演目は『椿姫』で僕の役は医師。物語の進行には全く関係ない役。歌唱力が災いしたのか(笑)主要パートはもらえませんでした。でも...出番というか出演時間は結構長い。そう、回りでやたらチョロチョロしている役だったのです。舞台が終わったあとの打ち上げで、演奏をしてくれた麻布高校のOBのオーケストラの方から「あなたは目立ってました」と言われました。....ひょっとして悪目立ち?

さて肝心の遠藤周作先生なんですが、僕のような若輩者はとてもとても近寄れない。ベテラン座員の方でもなかなか話しかけられないと言っていましたから。何といってもノーベル文学賞候補になったこともある大作家!エッセイだけではなく、『沈黙』、『海と毒薬』など代表的な小説も読んでいましたから、どんなに凄い人かは若者なりに認識していたつもりでしたし。

公演があった年の暮れ、忘年会がありました。
僕は勇気を振り絞ってサインをもらうべく、遠藤氏の著書をもって出かけました。
ところが....ビンゴゲームがあって景品として遠藤氏のサイン入り著書があたってしまったんですね。
それで満足してしまい、結局行かずじまい。何てチキンな私め。かなり後悔しています。

僕が樹座に出演したのは残念ながらその1回切り。次の回も希望すれば出演できたっぽかったが
タイミングが合わなくて断念。でも機会があればまた出たいとは思っていましたが...。

樹座に参加していたとき、遠藤氏が「この公演が最後だよ。次回は追悼公演」と言っていたのを聞いたことがある。
隣にいたベテラン座員の方が醒めた口調でぽつり。「遠藤先生は毎回、そんなことをおっしゃっています」
その言葉はついに本当となる日がやってきた...。

僕が出演したのは第17回公演。第20回を最後に遠藤氏は亡くなってしまった。
最後の回は舞台挨拶もかなりしんどそうな様子だったという。
舞台で共演した方を誘って青山葬儀場で行われたお別れの会に出掛けた。
一般客の列に並んで順番を待っていたが
座員の方が「樹座の方ですよね」と声をかけてくれて別ルートでお別れをしてきました。
数年前に一度出演しただけの若造を覚えてくれていてうれしい(涙)。
樹座の座員の方たちともそれっきりお会いしていない。
僕は東京を離れてしまっているのでもうチャンスはないんですけど。

さて、樹座出演後、僕が遠藤作品を読み続けたかというと....NOなんですね。
就職、そして転職と上手くいかないことが多く、遠藤氏の著書に限らず本をあまり読まなくなってしまった。

その後、一度だけ遠藤氏の著書を手にとったことがある。『深い河』である。
遠藤氏晩年の代表作であり、遠藤氏の棺には『沈黙』とともにこの本が収められているという。

就職してあまり本を読まなくなってしまった僕。純文学などもってのほかだったのですが、『深い河』を手にとったきっかけは宇多田ヒカルの3rdアルバム『DEEP RIVER』が遠藤氏の『深い河』に刺激を受けてつけられたタイトルだと知ったこと。特に宇多田のファンではなかったが、"あんな若い子が、しかもアメリカナイズされた子が遠藤周作なんか読むんだ!"と妙に感心し(既にオヤジモード突入してたようです)、久々に遠藤氏の小説を手にとった次第です。

ところが...自分でも不思議なくらい受け付けない。
僕は本を読むのは比較的早いほうなのですが、なかなか頁が進まない。
難しいからでも、深刻な内容だからでもなく、単純に読みにくかったから。文体、内容とも感傷的すぎるように思えたからだ。
途中でほおりだしたくなるのをこらえ、休み休み何とか読了した。(2週間以上かかったんじゃないかな)
だけど何も覚えていない。
遠藤氏の著書は学生時代、それなりに読んでいたはずだが嫌悪感に近いものを覚えたのははじめて。
社会の波にもまれ、感受性が薄らいでくると同じ作家の本でもここまで捉え方が変わってしまうのか?
数年ぶりの遠藤文学とは悲しい再会となってしまった。
"ああ、遠藤周作の本を読むことは2度とないのかな"と一瞬思ったが、いつかまたその機会が訪れることはわかっていた。
あのマーティン・スコセッシ監督が『沈黙』の映画化権を獲得していたことを知っていたからである。

 少し苦手だけど信用はしていたマーティン・スコセッシ!
いつの頃からか(『最後の誘惑』の後あたりからと言われている)"現存するアメリカ最高の映画監督"と言われるようになっていたマーティン・スコセッシ。そのわりに長年、アカデミー賞がとれなかったことがネタとなっていた。

個人的には映画を本格的に観始めてまもない時期に、『タクシー・ドライバー』と『レイジング・ブル』を観た。力強い作品ではある。だが余裕とか遊び、ユーモアが少なく、ひたすらギスギスしている雰囲気がやや苦手。その後、スコセッシ作品を何本も観たが似たような印象がつきまとった。映画監督としての力量は疑う余地もないが、それと個人的好みは別物なんデス。ぶっちゃげて言ってしまうと、最近の、レオナルド・ディカプリオと組んだ5作品は全部嫌い。ディカプリオの顔、声、演技、すべてがスコセッシの映画世界にそぐわないし何よりも商業的な要素を配慮しすぎている。苦手ではあったけれど、スコセッシ作品にみられる底辺からはいあがって(そしてまた堕ちていく)何とも言えぬ、アクの強いパワーは魅力的でもあった。レオと組んだ作品からはそういう負のオーラが漂っていないのだ。

もっともスコセッシの映画全部が苦手というわけではない。スコセッシといえばマフィア映画など暴力描写のイメージが強いが、個人的にはそれ以外の作品はわりと好き。初期の『アリスの恋』(1974)は楽しい作品だったし、近作の『ヒューゴの不思議な発明』(2011)で3Dという新しいオモチャでちょっと遊んでみました、という感じがよかった。ジェームズ・キャメロンを除くと3Dを使って良質な映画を作ったのはスコセッシとアン・リーだけ。また3D映画に挑戦してほしい気もするが『ヒョーゴ〜』は興行的に失敗したからねえ。大体、スコセッシがやりたいことをやった企画はコケると相場が決まっているようで(^^;

力入りまくりの映画でも好きな作品はある。『最後の誘惑』(1988)と『クンドゥン』(1997)ーどちらも宗教色の強い内容だ。『最後の誘惑』は公開当時、大論争を巻き起こし、今風の言い方をすると"炎上マーケティング”もどきの作品では?と思いがちだが、とんでもない!原作の力も大きいが、物語をたどるのが精いっぱいになりがちな他のキリスト映画とは一線を画す問題定義にあふれた良作だった。

また『クンドゥン』はダライ・ラマ14世の半生を描いた作品。完成直前に亡くなったスコセッシの母親に捧げられており、何とも言えない優しさにあふれた作品。スコセッシ自身"無条件の愛についての映画。自作のなかで最も愛着のある作品。私にとってもっとも身近に無条件の愛を体現していた人は母だった」と語っている。この作品でスコセッシがチベット仏教に触れたことは『沈黙』を撮る際、かなり役にたったのではないかと思う。遠藤氏は"日本人は仏教を下地にしたほうがキリスト教を理解しやすい"と語っているし、キリスト教を母性的にとらえようとした人だったから。『最後の誘惑』と『クンドゥン』を撮った人なら、『沈黙』も良い映画にしてくれるに違いない、そう思った。



マーティン・スコセッシは幼い頃、映画監督ではなく司祭を目指していたことはあまりにも有名。映画監督としての力量、実績、個人としてのバックボーン、『沈黙』を映画化するのに彼以上の適任者は考えられない。

世界中の映画を全部見ているのではないか、と言われるほどの映画好きで知られるマーティン・スコセッシ。映画関係のドキュメンタリーには必ずと言い切っても良いほど登場し、例のマシンガントークで博学な知識、卓越した見識を示してくれます。そしてあの優し気な笑顔と映画に対するあふれんばかりの愛情。作品には好き嫌いあれども、スコセッシ本人を嫌いな映画ファンなんているのでしょうか?

マーティン・スコセッシが『沈黙』の映画化に最適な人物だと思ったのはもうひとつ理由がある。
かなり昔、スコセッシはインタビューでこんなことを言っていた。

「私の映画の主人公は成長しないんだ。映画が始まったころと最後で主人公の状況は何も変わっていない。でもそのあいだにカタルシスを得る。私はそういうのが面白いと思うんだがね」

これを読んだとき、僕はまさに"目から鱗"だった。そうだ!そうだよな、それが映画の醍醐味だよな、と。
物語の起承転結がはっきりしすぎているもの、最後で主人公が著しい成長をとげ、メデタシメデタシハッピーエンドの映画が僕は苦手だった。例え目の前の現実が変わらなくても、心の中で形にならない思いを育む。言葉にしにくいモヤモヤがふわーと浮かんでくる。そういうのが面白いと思う。

小説『沈黙』の個人的解釈は"真実は世界でひとつ。だから従えと言わんばかりに集団を調教するため日本へやってきた宣教師が棄教をへて神をあくまでも"個人的な"同伴者として受け入れる物語"。スコセッシの「私の映画の主人公は〜」という考え方は神を救世主ではなく同伴者として受け入れる気持ちに通じるものがあると思う。この言葉を目にしたとき、スコセッシなら絶対『沈黙』を良い映画にしてくれるはずだ、と信じた。作品を観て、その思いは確信に変わる。小説『沈黙』は最高の映画監督の手に委ねられる幸福を得たのだ。

 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない
ようやく映画の話です。
この映画、怖いくらい原作に充実。
自然描写からラストまで。(明白な脚色がひとつあるが)
よって、映画記事といっても原作のレビューなのか映画のレビューなのか『沈黙』をネタにした個人的戯言なのかよくわからぬ文章になってしまったことをお許し願いたい。本作に関しては映画レビューによく見かける、俳優の演技がどーのこーのとか書いただけでお茶を濁したくない。(俳優は皆良かったと思います)あくまで作品の内容、物語に関連することを語りたい。



原作をはじめて読んだのは学生の頃で、何となくわかったような気がしたが実は全く...。
××年ぶりに原作を再読し、「こんなにすごい小説だったのか!」と改めて驚嘆した。

人は若い時に読んだ本、音楽、映画などから結局離れられないという話を聞いたことがあるが
また遠藤氏の本を手にとる機会が増えるかもしれないと思った。

若いころ、遠藤氏の本を読んでいてよかったと思うことがひとつある。
自分自身は宗教とは縁のない人間だが、宗教に変な偏見を持たずにすんだことだ。

若い人ほど何の根拠もなしに「宗教なんて...」と小馬鹿にする態度をとる傾向がある。
宗教団体がらみの報道を見聞きして、"ああ、宗教なんてやっぱり胡散臭い"と決めつける。
自称インテリほどその傾向が強い。だけど宗教と、宗教団体とは全く別ものと考えるべき
人が生きていくうえで心の拠り所は不可欠。人が神を心の拠り所として生きることはごくごく真っ当なことだ。

「西洋で個人主義が発達しているのは神を信じているから。
日本で個人主義が発達しないのは家族や仲間を何となく信じているから」

という文章をどこかで読んだことがある。なるほどな、と思った。
僕は西洋で暮らしたこともないし、神も信じていないような気がするが
どちらかというと個人主義的な考え方の人間である。
"みんな"という言葉が大嫌いで、"みんなで〜しましょう"とか言われると勝手にしろ、と不貞腐れるタイプ(笑)。
その一方、"家族や仲間を何となく信じている"という感覚もあまりピンとこない。
いったい自分は何者だろうか?と途方にくれた。

そもそも人は形あるものを信じることができるのだろうか?
そして多くの人が"同じもの"を信じることができるだろうか?

原作でも映画でも「日本人が物をありがたがるのが気になった」という表現がさらりと出てくる。
突き詰めてゆくと偶像崇拝うんぬんの話に発展し、下手に首をつっこむとボロが出そうなのでやめて...おきたいのだが本作ではそうもさせてくれない。

ロドリコがフェレイラと再会する場面である。
"日本人はデウスを大日と混同し、基督教の神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていた"
フェレイラはロドリコに冷たく告げる。

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
(原作より引用)

フェライラは"切支丹が滅びたのは、禁制のせいでも迫害のせいでもない。日本には基督教を受け入れぬ何かがあったのだ”とロドリコを説く。"真実はひとつ"と思い込み、日本に乗り込んでいたロドリコは激しいショックを受ける。
ど同時に、フェレイラの悲しみ、孤独、弱さを感じとる。

原作でも、そして映画の中でも個人的に激しく抵抗があった場面。
何故なら、僕は長年"異なる人が同じものを信じているなんてありえない"という考えを持っていたからだ。

"人は信じたいものを信じる"とよく言う。
僕は"人は信じたいように信じる。ある対象に対して、自分の都合のよいように、自分にわかりやすいように翻訳したうえで自分の中に対象をとりこむ。それは西洋人だ、日本人だといった大きな尺度で語るものではなく、あくまで個人ひとりひとりの次元である。個人ひとりひとりが信じているものが違うのに、育った国や風土といった要素が加われば大きく違ってくるのは当たり前ではないか?宗教的な考え方の違いで戦争もおこる。信じているものが違ったため、夫婦は離婚する。多くの人が同じものを信じている、というのは時の権力者や組織の統率者が集団をまとめるために用いるまやかしではないか?"と漠然と思っていた。

それを言ったら身もふたもないという声が聞こえてきそうだが、やはり"日本は〜、日本人は〜"という言い方に激しい抵抗を覚えるのである。突き詰めていくと個人レベルの話なのに、何故そういう十把一絡げ的な語り方をするのだろう。

遠藤周作氏が日本人とキリスト教の関わりをライフワークにしていたのは周知のとおり。
この物語においても重要な場面であることは確かだが、個人的には衝撃的であれど心には響かなかった。
よって、日本人うんぬんの箇所は本作のメインテーマではなく、次につなげるためのステップである、と解釈する。
そう、僕もここで"自分の信じたいように信じている"のである。

 神は沈黙しているのか?
フェライラはさらにロドリコに畳みかける。
「わしが転んだのは、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしていやれぬ。神も何もせぬではないか」

踏絵を迫られるロドリコ。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」。
イエス像が語りかけるようだ。

足をかけるロドリコ。そして転ぶ。鶏が遠くで泣く。
最後の晩餐のあと、イエスから「鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と言われたペテロのように
ロドリコも自分の弱さに負けた。

ほんの一瞬、ロドリコが踏絵に足をかける寸前でぶった切ったほうが余韻の残る、すっきりしたエンディングになったのでは?と思ったがもちろんそんな愚行はしない。物語の本当のテーマは『沈黙 -サイレンス-』というタイトルが示す通り、ここから先だからだ。棄教後のロドリコがたんたんと描かれ、物語の後処理描写のようにみえる箇所だが、ここが一番大事なところ。

原作最後の"切支丹屋敷役人日記"。
切支丹屋敷とは"17世紀半ばに井上筑後守の屋敷を改装して造られた宣教師の幽閉所"のこと。
そこでの元宣教師たちの様子を役人が記録した「査祅余録」という文書があり、その文書を遠藤氏が一部創作を交え、書き写したもの。文章が難解であるため、読み飛ばされることが多いと遠藤氏が嘆いていた箇所だという。キネマ旬報 2017年2月上旬号 No.1738 沈黙‐サイレンス−」が語りかけるもの――原作の視点から  −川友理子 (長崎市遠藤周作文学館学芸員)記事を参照)

切支丹屋敷役人日記は非常に読みにくい文章だが、何とか文字を追ってみると、ロドリコが(表向きの)棄教後もキチジローがひたすらまとわりついていたことが何となくわかる。

「この世には弱か者と強か者のございます。俺のように生まれつき弱か者はどうすればいいのか」
キチジローは幾度となくロドリコに問いかける。
キチジローを"悪人にも値しない"男と見下していたロドリコも、自分も、かつての師フェライラも、キチジローと同様"弱か者"であることを知る。
「強い者も弱い者もない。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
ロドリコはキチジローに秘蹟を与える。

ロドリコはこう独白する
「自分はあの人を決して裏切ってはいない。今までともっと違う形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だった。あの人は沈黙していたのではない。たとえあの人は沈黙していたとしても、私は今日までの人生があの人について語っていた。」

映画『沈黙 -サイレンス-』において明白な脚色箇所がひとつある。
モキチは殉教する前、ロドリコに木彫りのイエス像を手渡す。
やがてロドリコが日本で亡くなり、仏教方式で葬式が営まれる。
ロドリコの掌には木彫りのイエス像が載せられていた...。

一見、ラストに映画的情緒を加えるためだけのように見える部分だが、決して原作のエッセンスを損なうものではない。むしろ見事な視覚的表現と行ってよい。

ひょっとするとロドリコは木彫りのイエス像を実際には持っていなかったのかもしれない。(話の流れから考えて、役人に見つかり没収されたと考える方が自然)そしてこの場面、まるでロドリコが母親の胎内に包まれているかのようにも見えるのだ。

この場面の意味を考えるにあたって、遠藤氏の著作からいくつかのことをピックアップしてみたい。

1.本当の宗教は神も仏もないところから出発する
まず、"本当の宗教というのは、神も仏もないのかと思ったところから出発するのではないかなという気が、だんだんしてまいりました"(『私にとって神とは』より引用)
そして、"神も仏もないという気持ちになったとき、なおそこで神の意味を認めるということではないか"と述べています。宗教に入ったら、ご利益があって、子供の病気が治ったり、お金が儲かる...こういうものは宗教の本質とはかかわりないものとも述べています。(『私のイエス』より要約)

2. 永遠の同伴者イエス
・イエスは不幸な人々は彼等を愛する者がいないことに気づいた。彼等の不幸は愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望だった。必要なのは『愛』。人間は永遠の同伴者を必要としている。自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に泪をながしてくれる母親のような同伴者を必要としている。(『イエスの生涯』より要約)

・永遠に人間の同伴者となるため、愛の存在証明をするためにイエスはもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間が味わうすべての悲しみと苦しみを味わなければならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。人間にすがって、ごらん、わたしがそばにいる。わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだ、と言えぬからである。(『イエスの生涯』より引用)

3.罪とは何か?
・ われわれが無意識のうちに、あるいは善意で、あるいは自分の弱さや卑怯さのために、他人の人生を歪めてしまうようなことがある時、おそらく、それは罪と呼ぶに値する行為だろう、と私は考えます。
・神の救いに対して絶望するということ。神というのは何もしてくれないのだ、という考え方を心に持つーこれはキリスト教でいう本質的な罪だ、と私は思います。(『私のイエス』より引用)

これらの言葉をヒントに映画『沈黙 -サイレンス-』のラスト場面の意味を考えてみる。

ロドリコは"真理はひとつ"と意気込んで日本にやってきたが、棄教させられ、日本人として余生を暮らすはめになった。これは彼にとって"神も仏もないのか"状態であり、孤独と絶望に満ち溢れていた。そんなとき、"永遠の同伴者"イエスの存在を感じた。ロドリコは"他人の人生を歪めてしまう”罪を犯してしまったが、もうひとつの罪である"神の救いに対して絶望"はしなかった。イエスが自分の悲しみや苦しみをずっと分かち合ってくれた。それはまるで母親のような優しさだった。

言葉足らずで申し訳ないが、こういうイメージではないだろうか?
マーティン・スコセッシ監督はこれをラストのワンショットで表現した。
見事としかいいようがない。

さて、究極の問題です。神とは何でしょうか?
私などにはとても答えられません。またしても遠藤周作先生の言葉を借りましょう。
遠藤氏によると神は存在ではなく働きだという。
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・神はいつも誰か人を通してか何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、といったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれているとい考えたほうがいいかもしれません。
・無意識の奥にまた何かがあるかもしれない、それがキリスト教でいう魂、神の働くところであって、そこが人間の中で一番大切なんだなと、ある時期から考えるようになりました。仏が働いたり、キリストが働くのは、意識の世界ではなく、この心の奥底なんだな、働く場所はそこなんだな、と感じてきました。
・人間が神や信仰に目覚める時期は人生にいつか到来するからです。ひょっとするとそれは死のまぎわかもしれないが、死のまぎわでもよいと私は思います。
(『私にとって神とは』より引用)
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遠藤氏は"無意識の信仰こそ本物ではないか"とも述べている。

うーむ...。言葉で考えていること自体、"意識"している証拠だし、"無意識の奥に神が働く"と言われてすぐ理解できる人はこの世にいないだろう。言葉で理解できるものではない。神はいつか無意識のうちに体感するものなのか。

人間、年をとるとどうしても"自分の心の在り方"をきちんと整えておく必要を感じ始める。
処世術とか上っ面の自己啓発ではなく、もう少し深いところでの心の在り方を。
幸い、自分はまだ大病を患ったことはないが、周りを見ていると重い病気を患った場合やそれこそ不幸が続き、神も仏もない!という心情になった場合、その人の日頃の"心の在り方"によって随分違いがあるように見えるからだ。

僕は宗教や信仰に頼るよりも、自分の潜在意識を鍛えることによってある程度乗り切れるのでないかと考えているが(まあ、潜在意識うんぬんは上っ面の自己啓発書によくみられるテーマですけどね...)、ひとつ大きな問題がある。
絶望的なまでの孤独感にどう対処するかである。前述のとおり、僕は"家族や仲間を何となく信じている"という感覚になじめず、個人主義的な物の考え方をする人間である。"永遠の同伴者"という存在を心に兼ね備えて置いたほうが良いのかもしれない。信仰とかその類のものはあくまで集団ではなく一個人の問題であるという考え方は今でも変わらない。

武田泰淳氏が次のようなことを言っていたという。(『私にとって神とは』より引用)
"宗教というのは一つの組織になったら困ったものになる。しかし、個人宗教になったら、ものすごく心もとなく寂しくなり、どうしても自力本願になってしまう。信仰の中には他力本願という部分もあるから、そこをどうするかが問題だ"と。(黄字協調 筆者)

僕自身はもし信仰するなら絶対個人信仰だな、と。前述のとおり、"人は皆違うものを信じている。同じものを信じている集団なんてありえない"という考え方なので。

遠藤氏は『キリストの誕生』という著書の中で以下のように述べている。少し長いが引用させてもらう。
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 人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、素直におのれの内面と向きあうならば、この心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者に対する人間の条件なのである。
 だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教かいも時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
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映画『沈黙 -サイレンス-』はその題名どおり、神はなぜ沈黙しているのか?を問う作品。
この問いは、そもそも神は存在しているのか?と究極の疑問にいきついてしまう。
神が沈黙している、と思えば神は存在しないという考えに傾くし
神は沈黙していない、と思えばさて神はどこにいて何をしているのか?と。

ラスト場面を見る限り、マーティン・スコセッシ監督は遠藤氏が説く"永遠の同伴者"という解釈に同意しているように思える。だが"神は存在しているのか?"のかという問いは一生をかけても明確な答えは出ないだろう。それこそ死ぬまぎわに神の存在をはじめて意識するかもしれぬ。

"一流の文学作品は第一級の映画にはならない"
映画ファンのあいだでは常識なのだが、『沈黙 -サイレンス-』はそのジンクスをあっさりと打ち破った第一級の映画である。マーティン・スコセッシ監督作品の中でも『クンドゥン』と並ぶ最高傑作として位置付けられる映画だと個人的には思う、と前置きしたうえで

『沈黙 -サイレンス-』は評価とか批評とかその類のものですませるべき映画ではない、と思う。

マーティン・スコセッシ監督は「この映画を作ることができて夢がかなった。でもこれで終わりとは思っていない。この映画とともに生きていく。そんな気持ちです。」と語っている。観客も同じ気持ちだろう。何か形なきものを心の糧として生きようとする人にとってはどこか心の琴線に触れる箇所があるはず。そして一生をかけてその答えを探し続けることになる。ただし評価や批評にそぐわない物語であっても、映画そのものの出来が悪ければ"ともに生きる"以前の問題となってしまう。日本文学を代表する名著『沈黙』がマーティン・スコセッシという最良の監督の手で映画化されたことにより"この映画とともに生きる"ことができるのだ。安堵と幸福を感じずにはいられない。
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2017.02.13 Monday | 02:38 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |

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